伝通院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/28 20:49 UTC 版)
開山
室町時代の応永22年(1415年)秋に、浄土宗第七祖の聖冏が、江戸の小石川極楽水(現在の小石川4丁目)の草庵で開創し、山号を無量山、寺号を寿経寺とした(現在、この場所には徳川家康の側室茶阿の局の菩提寺・吉水山宗慶寺がある)。開山は、弟子である聖聡(増上寺の開山上人)の切望によるものという。本尊は、平安時代の僧・源信(恵心僧都)作とされる阿弥陀如来像[1]。
将軍家の菩提寺として
慶長7年(1602年)8月に徳川家康の生母・於大の方が京都伏見城で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、大塚町の智香寺(智光寺)で火葬した。位牌は久松俊勝菩提寺の安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立した。慶長8年(1603年)に家康は母の遺骨をこの地に埋葬し、現在まで残る墓を建立。寿経寺をここに移転して堂宇(堂の建物)を建て、安楽寺住職から受けた彼女の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。
家康は、当初は菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬するつもりであったが、「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師(慈昌)の言上を受けて、伝通院の建立を決めたという。慶長13年(1608年)9月15日に堂宇が竣工。観智国師門下の学僧廓山(後に増上寺十三世)が、家康から住職に指名された。
寺は江戸幕府から寺領約600石を与えられて、多くの堂塔や学寮を有して威容を誇り、最高位紫衣を認められ、増上寺に次ぐ徳川将軍家の菩提所次席となった。増上寺・上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称された。境内には徳川氏ゆかりの女性や子供(男児)が多く埋葬されており、将軍家の帰依が厚かったとされている。元和9年(1623年)に830石に加増されている。また慶長18年(1613年)には増上寺から学僧300人が移されて関東十八檀林の上席に指定され、檀林(仏教学問所)として多いときには1000人もの学僧が修行していたといわれている。正保4年(1647年)に三代将軍家光の次男亀松が葬られてからは、さらに幕府の加護を受けて伽藍などが増築されていった。享保6年(1721年)と享保10年(1725年)の2度も大火に遭っている。伝通院の威容は、『江戸名所図会』『無量山境内大絵図』『東都小石川絵図』の安政4年(1857年)改訂版でも知ることができる[2]。高台の風光明媚な地であったため、富士山・江戸湾・江戸川なども眺望できたという。
幕末の文久3年(1863年)2月4日、新撰組の前身となる浪士組が山内の大信寮で結成され、山岡鉄舟・清河八郎を中心に近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨ら250人が集まった。塔頭処静院(しょじょういん)の住職・琳瑞は尊皇憂国の僧だったが、幕臣の子弟により暗殺された。 また伝通院は、彰義隊結成のきっかけの場ともなったという。
明治以降の衰勢
明治維新によって江戸幕府・徳川将軍家は瓦解し、その庇護は完全に失われた。明治2年(1869年)に勅願寺となるが、当時の廃仏毀釈運動(仏教排斥運動)のために塔頭・別院の多くが独立して規模がかなり小さくなり、勅願寺の件も沙汰止みとなった。同じ浄土宗である信濃の善光寺とも交流があった関係で、塔頭の一つ縁受院が善光寺の分院となり、以後は門前の坂が善光寺坂と呼ばれるようになっている。縁受院は明治17年(1884年)に善光寺と改称して現在に至る。明治23年(1890年)に境内に移した浄土宗の学校をもとに淑徳女学校(現在の淑徳SC中等部・高等部[3])を創立した。また、明治時代になって墓地が一般に開放されるようになると、庶民の墓も建てられるようになった。
- ^ a b c 江戸名所図会 1927, p. 6.
- ^ 江戸名所図会 1927, pp. 7–11.
- ^ 現在同地に所在するのは淑徳SC中等部・高等部(学校法人淑徳学園)だが、東京都板橋区の淑徳中学校・高等学校(学校法人大乗淑徳学園)もルーツは同じである(1945年以降は別系統)。
- ^ 明治41年12月の火事により本堂が全焼している。明治41年12月4日東京朝日新聞『新聞集成明治編年史 第十三巻』写真あり(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ “東京大空襲で焼失 伝通院山門 67年ぶりに再建”. 東京新聞. (2012年3月5日)
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