両軍
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「ネールウィンデンの戦い (1793年)」の記事における「両軍」の解説
両軍の実力は、歴史家の間で意見が相違した。歴史家のディグビー・スミス(英語版)は仏軍を4万から4万5千人とした一方、墺蘭連合軍の人数を4万3千とした。ラムゼー・ウェストン・フィップス(英語版)は仏軍が歩兵4万と騎兵4,500、連合軍が歩兵3万と騎兵9千とした。セオドア・アイラウト・ドッジ(英語版)はデュムーリエが歩兵4万2千と騎兵5千を投入したのに対し、コーブルクは歩兵3万と騎兵1万であるとした。またグンター・エーリヒ・ローテンベルク(英語版)によると、デュムーリエの軍勢は4万1千人で、相手の4万3千を下回っていた。 ラマーシュの前衛は歩兵4千と騎兵1千であった。オーギュスト・マリー・アンリ・ピコー・ド・ダンピエール(英語版)率いる右翼の側面軍は歩兵2千と騎兵1千であった。ヴァランスの右翼軍は18個大隊で計7千人であり、ジョアシャン・ジョゼフ・ヌイイ、アレクシス・ポール・ミシェル・ル・ヴェヌールとヴァランスの師団に分けられた。シャルトル公ルイ・フィリップは中央の歩兵18個大隊(計7千人)と騎兵1千を率いた。その副官はジャック・トゥヴェノー(Jacques Thouvenot)とドモニク・ディートマンであった。ミランダの左翼軍はジャン・アレクサンドル・イーレ(Jean Alexandre Ihler)率いる7千人とフェリクス・マリー・ピエール・シェノン・ド・シャンモラン(Felix Marie Pierre Chesnon de Champmorin)率いる歩兵5千と騎兵1千だった。ジョセフ・ミアチンスキ(Joseph Miaczinski)は左翼の側面軍である歩兵2千人と騎兵1千人を率いた。予備軍はジャン・ネスター・ド・シャンセル率いる8個大隊で計4千人であった。合計すると、歩兵3万8千と騎兵5千となる。 一方、カール大公の前衛は歩兵11個大隊と騎兵11個大隊であり、数人の大佐率いる旅団に分けられていた。ヨーゼフ・フォン・グルーベルは第33スタルィ歩兵連隊の2個大隊を率い、シュテファン・フォン・ミハリェヴィチ(Stephan von Mihaljevich)はマホニー猟兵連隊の3個大隊、オドネル遊撃隊の1個大隊、ブラノヴァチュキー(Branovaczky)遊撃隊の3分の1個大隊、第32エステルハージ・フザール連隊の1個大隊を率いた。アントン・ウルリヒ・ヨーゼフ・フォン・ミリウス(Anton Ulrich Joseph von Mylius)はグリューン=ラウドン遊撃隊の1個大隊、チロリアン狙撃隊の3分の1個大隊、エステルハージ・フザール連隊の1個大隊を率いた。カール・フィリップ・ツー・シュヴァルツェンベルク(英語版)はチロリアン狙撃隊の1か3分の1個大隊、オドネル遊撃隊の1個大隊、ブラノヴァチュキー遊撃隊の3分の1個大隊、ウーラン連隊の3個大隊を率いた。Paul Devayはバルトダイスキー(Barthodeisky)、ブリー(Briey)、ピュクラー(Pückler)擲弾兵連隊とエステルハージ・フザール連隊の6個大隊を率いた。 ヨーゼフ・フォン・フェラーリス(英語版)は第1級(1st Rank)の8個歩兵大隊と16個騎兵大隊を率い、フェルディナント・フリードリヒ・アウグスト・フォン・ヴュルテンベルクを師団の指揮官に起用した。その内訳は第10コイル(Kheul)歩兵連隊、第28ヴァルテンシュレーベン(Wartensleben)歩兵連隊、第35ブレンターノ歩兵連隊から2個大隊ずつ、第3カール大公歩兵連隊、第69ヨルディス(Jordis)歩兵連隊から1個大隊ずつ、第12カファナーグ(Kavanagh)胸甲騎兵連隊と第14ナッサウ胸甲騎兵連隊から6個大隊ずつ、第1カイザー・カラビニアー(英語版)騎兵連隊と第5アルブレヒト公カラビニアー騎兵連隊から2個大隊ずつであった。ヴェンツェル・ヨーゼフ・フォン・コロレド(ドイツ語版)は第2級(2nd Rank)の6個歩兵大隊と10個騎兵大隊を率い、師団指揮官のヨハン・アンドレアス・ベニオフスキー(Johann Andreas Benjowski)とフランツ・フィンセンツ・フェレール・フォン・ホディッツ・ウント・ヴォルフラニッツ(Franz Vincenz Ferrer von Hoditz und Wolfranitz)少将を副官とした。その内訳は第25ブレシャンヴィル(Brechainville)歩兵連隊と第54カレンベルク歩兵連隊から2個大隊ずつ、第15アルトン歩兵連隊と第57ヨーゼフ・コロレド歩兵連隊から1個大隊ずつ、第10ゼッシュヴィッツ胸甲騎兵連隊から6個大隊、第18からカラツァイ(Karaczay)シェヴォー・レジ(英語版)連隊と第37コーブルク竜騎兵連隊から2個大隊ずつであった。 フランソワ・セバスチャン・シャルル・ジョゼフ・ド・クロワ(英語版)伯爵は予備軍の11個歩兵大隊と14個騎兵大隊を率い、ヨージェフ・アルヴィンチ(英語版)とヨハン・ネポムク・ゴットフリート・フォン・リュッツォフ(Johann Nepomuk Gottfried von Lützow)がその配下の指揮官を務めた。予備軍の内訳は第30リーニュ歩兵連隊、第34エステルハージ歩兵連隊、第38ヴュルテンベルク歩兵連隊から2個大隊ずつ、第55マレー(Murray)歩兵連隊、第58フィーアゼット歩兵連隊、ロイフェン、モルツィン、ルソー擲弾兵大隊から1個大隊ずつ、第31ラトゥール(Latour)シェヴォー・レジ部隊から8個大隊、第16ブランケンシュタインjフザール連隊から6個大隊であった。ネーデルラント連邦共和国からはストッカー(Stokkar)とヴァルデック連隊から2個大隊ずつ、メイ(May)とウェルデレン歩兵連隊から1個大隊ずつで計6個大隊派遣された。
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