ヴァイマル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/16 17:11 UTC 版)
紋章 | 地図 |
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基本情報 | |
連邦州: | テューリンゲン州 |
郡: | 郡独立市 |
緯度経度: | 北緯 50度59分 東経 11度19分 |
標高: | 海抜 208.6 m |
面積: | 84.26 km2 |
人口: |
65,138人(2021年12月31日現在) [1] |
人口密度: | 773 人/km² |
郵便番号: | 99401 - 99428 (旧: 5300) |
市外局番: | 03643
Taubach:036453 |
ナンバープレート: | WE |
自治体コード: | 16 0 55 000 |
市庁舎の住所: | Schwanseestr. 17 99421 Weimar |
公式ウェブサイト: | www.weimar.de |
E-Mail: | stadtverwaltung@ stadtweimar.de |
行政 | |
上級市長: | シュテファン・ヴォルフ (Stephan Wolf) (SPD) |
ヴァイマル(ドイツ語: Weimar、ドイツ語発音: [ˈvaɪmaɐ] ( 音声ファイル) ヴァイマー)は、ドイツ・テューリンゲン州の都市で、主要な歴史的文化都市のひとつ。ワイマール、ヴァイマール、ワイマル、ヴァイマー、ワイマー、ウァイマーなどとも表記される。慣用的に「ワイマール」と表記されることが多い。
面積は84,27 km2、人口は約65,000人。主な宗教はキリスト教プロテスタントルター派。1999年には欧州文化首都に選ばれている。
地勢
州都エアフルトから東に20キロメートルほどの平地に開けた町である。ヴァイマルとは“聖なる泉”を意味する言葉といわれている。東隣20キロメートルほどの離れたところには古い大学町イェーナがある。
文化
神聖ローマ帝国時代にはザクセン=ヴァイマル公国(帝国解体後ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国)の首都であった。公国時代には、J.S.バッハが宮廷音楽家を務め、またゲーテが宰相として仕えたことで知られる。市中心部には、ゲーテの旧邸宅がほぼ原型のままで保存されている。ゲーテ旧邸宅から300mほどの場所にあるヴァイマル国民劇場は、ゲーテやフリードリヒ・シラーらが自作のオリジナル演劇作品を上演したドイツ古典主義関係の歴史的遺構である。ここでは、いまでも現代の演出家による作品が公開され、オペラなども定期的に上演されている。これらの建物は古典主義の都ヴァイマルの名で、世界遺産(文化遺産)に登録されている。ほかヴァイマルにはヘルダーの旧宅などがある。
国民劇場の正面向かい側には、広場をはさんでバウハウス博物館がある。周辺には、グロピウスの主宰したバウハウスの旧校舎(現在バウハウス大学ヴァイマル)およびヴァイマル市民会館などバウハウス関係の建築物が点在する。これらのうち3件の建築物がヴァイマルとデッサウのバウハウスとその関連遺産群の一部として、1996年に世界遺産(文化遺産)に登録されている。
ヴァイマルは、第一次世界大戦後の1919年に憲法制定会議が行われた地として知られている。会議が行われた場所は、ヴァイマル国民劇場である。ここで制定された憲法をヴァイマル憲法(Weimarer Reichsverfassung、ワイマール憲法)、この憲法に基づいた1919年から1933年までのドイツ共和国をヴァイマル共和国(Weimarer Republik、ワイマール共和国)と呼ぶ。
ヴァイマルの街中から北西に7kmのところに、ナチス時代のブッヘンヴァルト強制収容所の遺構がある[2]。
姉妹都市
友好関係都市
出身有名人
脚注
関連項目
- ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国
- ヴァイマル共和国
- ヴァイマル憲法
- ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
- ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(ヴァイマル公国宰相)
- フリードリヒ・フォン・シラー
- ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー
- パウル・クレー
- ワシリー・カンディンスキー
- ヴァイマール三角連合
- 古典主義の都ヴァイマル
- ヨハン・ネポムク・フンメル
- ブーヘンヴァルト強制収容所 - 都心から約8キロメートル離れた丘陵地帯であるエッタースベルクに設置された
外部リンク
- ヴァイマルの公式ホームページ(ドイツ語)
- ヴァイマル J.N.フンメル協会(ドイツ語)
ヴァイマル (Weimar)
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「ゲーテ街道」の記事における「ヴァイマル (Weimar)」の解説
1775年、ゲーテはカール・アウグスト公爵に招かれヴァイマルに移り、以後生涯の大半をこの地で過ごした。ヴァイマル公国は、図書館や宮廷劇場を市民に開放するなど積極的な文化政策を進め、小国ながらドイツにおける文化的中心となっていた。領主城館はゲーテがこの街に来る前年に焼失しており、現在の建物はゲーテの時代に建てられたものである。ゲーテは市街の東の外れにある公園にガルテン・ハウスという家を与えられ住んでいたが、1782年に新たな邸宅を市内に与えられ、亡くなるまでここに住んだ。この屋敷は現在も保管され公開されている。ゲーテがイェーナ大学に招いたシラーもヴァイマルに家を構えており、亡くなるまでの数年を過ごしている。ゲーテとシラーの銅像が国民劇場の前に建っているが、この国民劇場は、ゲーテが劇場監督を務め、シラーの作品を多く上演した劇場であり、後にはフランツ・リストやリヒャルト・シュトラウスが音楽監督を務めた劇場でもある。「ヴァイマル憲法」として知られているヴァイマル共和国の憲法が採択されたのもこの劇場であった。ヴァイマルの南郊にはゲーテやシラーの遺体が安置されたヴァイマル公家廟やさらに南にはベルヴェデーレ離宮がある。この街は「古典主義の都ヴァイマル」としてユネスコの世界遺産に登録されている。
※この「ヴァイマル (Weimar)」の解説は、「ゲーテ街道」の解説の一部です。
「ヴァイマル (Weimar)」を含む「ゲーテ街道」の記事については、「ゲーテ街道」の概要を参照ください。
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