SSと軍での経歴
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「ハインツ・ハイドリヒ」の記事における「SSと軍での経歴」の解説
ジャーナリストを志望してベルリンに赴いていたハインツ・ハイドリヒは、1931年にラインハルト・ハイドリヒが国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチス)に加入し、後の親衛隊保安部(SD)の前身である党内諜報組織の編成に取りかかると、その協力者となった。自身もSS中尉となり(隊員番号36,225)、ドイツ国防軍では第697装甲宣伝中隊に所属して兵士向け機関紙『パンツァーファウスト』(Die Panzerfaust)の発行に携わった。当初の彼は熱烈なアドルフ・ヒトラー支持者であり、またナチ党員であった(党員番号2,637,825)。 しかし1942年6月の、ベルリンにおけるラインハルトの国葬の直前に、ハインツはプリンツ・アルブレヒト通り(ドイツ語版)8番地にあったゲシュタポ本部の保管庫から持ち出された、兄の書類を含む大きな小包を受け取った。ハインツは書類とともに、自らの部屋に閉じこもった。翌朝、彼の妻ゲルトルートは、夫が夜を徹して小包封入の文書を焼却していたことに気づいた。前線からの一時帰休中であったハインツは、会話に注意を向けることができなかったと、ハインツの息子ペーター・トマス・ハイドリヒ(ドイツ語版)は後に回想した。彼の心はどこか他所にあるかの如くで、まるで石のようであったという。一方のゲルトルートは、ハインツの行動について息子に語ったものの、戦後に至っても小包の内容の話には触れようとしなかった。ペーターの推測では、小包の中の書類はおそらくラインハルトの個人記録であり、ハインツはそこから初めてユダヤ人の組織的絶滅、いわゆる最終的解決の非道ぶりを全て理解したものであった。兄の死の時期を境として、ハインツはそれまでの「楽天的で諧謔に満ち、気まぐれで、明らかに人生を愛している」存在から「常に落ち込んでいて物思いにふける、厳粛な様子の」異なる人間となったと、ペーターは振り返った。 ハインツはその後、身元確認書類を偽造して『パンツァーファウスト』用の印刷機で刷り上げることで、デンマークから中立国のスウェーデンへ向かう経路を主に利用したユダヤ系の人々の脱出を助けている。少なくとも2例の救出案件に助力したことが確認されており、俳優カール・ヨーン(ドイツ語版)のユダヤ系の妻もこの経路を利用した一人であった。
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