SD勤務時代
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「アドルフ・アイヒマン」の記事における「SD勤務時代」の解説
1934年9月、当時親衛隊伍長であったアイヒマンは、SDに応募し、SD長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将により採用された。SDII/111課 (フリーメイソン担当課) の補助員となった。同僚のディーター・ヴィスリツェニーによるとこの頃からアイヒマンは記録や組織的な整理といった体系的な作業を好んだという。しかし数か月で人事異動となり、レオポルト・フォン・ミルデンシュタイン(ドイツ語版)親衛隊少尉が課長をしていたII/112課 (ユダヤ人担当課) へ異動した。以降一貫してアイヒマンはユダヤ人問題に携わることとなる。同年12月15日には大臣ハンス・フランク博士を筆頭とする100余名のナチス学者による『ナチスの法制及び立法綱要』 (Nationalsozialistisches Handbuch für Recht und Gesetzgebung) が出版された。 ユダヤ人課の上官フォン・ミルデンシュタインから読むよう命じられたテオドール・ヘルツルの著作『ユダヤ人と国家』にアイヒマンは強い影響を受けたという。アイヒマンはドイツ在住のユダヤ人をパレスチナへ移住させる計画に関心を示すようになった。1933年から1937年にかけて2万4000人の在独ユダヤ人がパレスチナへ移住していた。アイヒマンは、これをさらに拡大できないかと考え、1937年夏に長官ハイドリヒの許可を得てパレスチナ移住計画の可能性を評価するため、上官のヘルベルト・ハーゲン (フォン・ミルデンシュタインの後任のII/112課課長) とともに英国委任統治領パレスチナに赴いた。彼らはハイファに到着したが通過ビザしか得られず、カイロへ進んだ。カイロではハガナーのメンバーに会った。さらにパレスチナでアラビア人のリーダーに会うことを計画したが、パレスチナへの入国はイギリス当局によって拒絶された。そのため外遊の成果はほとんどなかった。しかもナチスの政策は後にユダヤ人国家の設立を妨げる方向で定められたので、結局、経済的理由のためのパレスチナへの大規模移住に反対する報告書を書いている。
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