PRG政権の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 01:51 UTC 版)
イギリスの植民地であったグレナダは1974年に独立した。当時、首相だったエリック・ゲーリー(英語版)とその一族は組織化したギャングによる敵対派への厳しい対応で知られており、外国資本と癒着し独裁を強め失業と貧困が広がり深刻化していった。 これに対し福祉・教育・自由の共同努力を掲げる「ニュー・ジュエル運動」を中心としたクーデターが1979年に起こり、これによりゲーリー政権は軍・秘密警察と共に崩壊した。そして、新たにモーリス・ビショップが首相に就任し、人民革命政府(英語版)(PRG)を樹立した。PRGは憲法を停止し、議会を解散してイギリス式民主主義を非難する一方で、商工会議所など国内各所層の幅広い支持を受け医療や教育や観光事業の近代化に着手していった。 また、周辺地域である西インド連合州(WIAS) は革命を違法であると認定し、PRGを不承認する決議を行ったが、実際に不承認とできたのは独立国であったドミニカ国とセントルシアのみであった。1980年にはPRGが フォーブス・バーナム(英語版)政権を批判したためガイアナとの関係が悪化し、ジャマイカでも左派政権が倒れたために次第にグレナダは孤立化していった。一方でグレナダは東側諸国に明確に接近しており、ソ連のアフガニスタン侵攻に対する国際連合の非難決議にキューバとともに反対し、政権成立直後からキューバなどによる軍事援助も受けていた。 一方でアメリカ合衆国大統領に当選したロナルド・レーガンは、共産主義と対決する姿勢を明確にしており、1980年11月に「カリブ海イニシアチブ」を発表しカリブ開発銀行(英語版)に援助を与えるが、銀行はグレナダに対して援助してはならないと声明した。この措置はカリブ共同体諸国の反発を招き、かえってWIASを除くカリブ海諸国をグレナダと共存する意志で結束させることとなった。1981年にはWIASが東カリブ諸国機構(OECS)に発展し、グレナダもその一員となった。
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