PC-100の境遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 02:09 UTC 版)
数々の先進的な機能を装備し、様々な画期的アプリケーションソフトを同梱する一方で、PC-100の置かれた境遇は、決して恵まれていたとは言えなかった。 当時、NEC社内ではPC-8001以来パソコンの開発に取り組んできた電子デバイス事業グループと、1981年から業務用16ビットパソコン(PC-9800シリーズ)の開発を担当することになった情報処理事業グループが、水面下で主導権を争っていた。あるソフトハウスの社長は、「98グループの口癖は"打倒88"だった」と当時を振り返った。 情報処理グループが総力を挙げて開発したPC-9801は、1983年に入って対応ソフトが出始め、波に乗ろうとしていた。PC-100はPC-9801の後継機であるPC-9801Fと同日に発表された。両者の営業は競合し、販売店からは「どちらの言うことを聞けばいいのか分からない」という意見が出始めた。NECの上層部はこれを把握したものの、下手に決定を下せば社内が分裂しかねないために、動けない状況にあった。1983年12月、かつては電子デバイスグループ直轄の取締役で、パソコン事業の分業体制を作った当人である大内淳義は、電子デバイスグループからパソコン事業を切り離し、家庭用パソコンのPC-6000シリーズを開発していた日本電気ホームエレクトロニクスへ譲渡する決定を下した。大内は当時を次のように振り返った。 電子デバイスというのは、昔は部品屋みたいなものだった。どこに行っても頭ばかり下げていましたよ。ところがようやく世の中が半導体に注目し始めた。パソコンという柱を立てて、さあこれからというときに、止めろと言わなければならない―。しかしあのままいってたら、事業そのものがおかしなことになってしまう。もう仕方がないと思いました。移すのはあのときしかなかったんです。 別の見方では、PC-100は社外開発という事情から社内で重視されることはなかったと推測された。また、ソフトウェアを一式バンドルして先進的な機能を盛り込んだために高価になってしまったこと、従来の機種と互換性がなかったこと、FDDの容量がPC-9801Fに比べて劣っていたことが指摘された。 その後、市場はPC-100の後を追うようにアプリケーションのプラットフォームをBASICからMS-DOSへと急速に移行し、1980年代後半には、NECが社運をかけて売り込んだPC-9800シリーズの全盛時代となって行く。 このような経緯から、PC-100は商業的には失敗作とされ、マニアの間で不遇の名機として語られるところとなった。ゼロックスのStarワークステーションによって提示されたGUIを指向しながらその高価格ゆえに失敗した、同じ1983年に登場したアップルコンピュータのLisaとも、その広視野なコンセプトに相反する結果を辿ったことで、通じる点がある。 なお、PC-100は当初PC-9801を超えるものとしてシリーズ名をPC-10000として計画されていた。しかし、当時、PC-9800シリーズ用周辺機器は後年に統一名称となったPC-9801-xxだけではなく、PC-98xxと付番されていたものもあり、製品ラインナップ上の整合性の問題などからPC-100に変更された。周辺機器などの型番がPC-10000-xxとされていたことは当初のシリーズ名の名残である[要出典]。
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