Me 262での戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 04:24 UTC 版)
「オスカー=ハインリヒ・ベール」の記事における「Me 262での戦闘」の解説
1945年2月にベーアはジェット戦闘機訓練部隊の第2予備戦闘航空団(EJG 2)/第III飛行隊へ異動した。3月にこの部隊はメッサーシュミット Me262を装備し、戦闘に投入された。ベーアは13機の敵機を撃墜し、その多くはB-17やB-24のような重爆撃機であり総撃墜数は217機になった。4月23日にベーアはアドルフ・ガーランド率いる精鋭ジェット・エクスパルテン(Jet Experten)部隊の第44戦闘団(JV 44)へ異動になり、4月26日にはガーランドが負傷したことによりこの部隊の指揮を引き継いだ。JV 44でのベーアの最初の作戦行動は恐らく1945年4月27日の出撃であった。ベーアは6門のMK 108 機関砲を搭載した試作機のMe 262 A-1/U5に搭乗し、ヴィルヘルム・ヘルゲット少佐とフランツ・ケスター伍長(Unteroffizier)を引き連れて飛行し、この3人がリーム上空でUSAAFの戦闘機を迎撃したときにベーアは1機を撃墜した。飛行任務以外ではベーアは大半の時間をJV 44に新しく配属されてくるパイロット達に促成の教習を行った。4月28日にベールはJV 44での最後の戦果となる4機(P-47を3機とモスキートを1機)を撃墜し、総撃墜数を220機とした。結局、ベーアはMe 262で16機を撃墜し、これにより中佐の階級で終えたこの大戦において2番目に多くの戦果を挙げたジェット機使いとなった。 ヨーロッパでの第二次世界大戦最後の数日間にアドルフ・ガーランド中将は病院のベッドからJV 44をアメリカ軍に投降させようとしていた。これと同じ頃にカール・コラー空軍大将はJV 44にプラハへ移動して戦闘を継続するように命じた。ガーランドに忠実なベールはこの命令を無視しようとした。JV 44の移転について更なる圧力がベールに加えられ、1945年5月2日にマックスグラン(Maxglan)の指揮所を第IX航空軍団の指揮官ディートリッヒ・ペルツ少将と第9航空師団 (J)の指揮官ハヨ・ヘルマン大佐が突然訪れた。これを目撃したヴァルター・クルピンスキーによるとベールとペルツ、ヘルマンの間で熱く激しい議論が噴出した。後日クルピンスキーは、ベールの「了解しました。しかし、我々はガーランド中将の指揮下にあります。私はガーランド中将の命令にのみ従います。」という最後の反抗を聞いてベールが抗命の罪で銃殺刑に処せられると信じたことを思い起こした。 1945年5月4日の早朝、ベールはJV 44のパイロットたちと最後の打ち合わせを行った。ベーアは、ハイデルベルクに駐屯する米第1戦術空軍の捕虜尋問部隊による尋問や鹵獲される前に残存するMe 262を破壊するように命じた。
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