KMの生い立ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 15:49 UTC 版)
「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」の記事における「KMの生い立ち」の解説
KMは犯行グループを含めた十数人の遊び仲間のリーダー的存在で、素行の悪さが目立ち、愛知県警の尾張にある各警察署が動きをマークしていた。 KMは一宮市内で生まれたが、実母は高齢出産でKMを生んだ直後に急死したため、養育に困った実父が弟(KMの叔父)夫婦に養子として預けた。しかし養母の弟4人のうち3人は暴力団組員という環境だったことに加え、KMが預けられた直後に養父が事業に失敗して破産し、KMは極度に孤独な幼少期を過ごした。幼少期から盗みを繰り返していた一方、小学校3年生の時には盗みの濡れ衣を着せられたことで警察沙汰になったため強烈なショックを受け、その後はさらに非行が激しくなった。しかし児童相談所・教護院の記録によれば当時はむしろ気の弱い子供で、中学2年生の時には児相から「まだ小学校中学年程度に感じられる。協調的に行動できない一方で気が弱く、特に成人男性を目の前にすると萎縮する。職員男女への反応差が顕著で父母の養育のアンバランスさを感じさせる」と記録されている。 1989年(平成元年)2月には13歳で県立の教護院「愛知学園」に入所し、それ以降は事件を起こすまでほとんどの期間を児童矯正施設で過ごしていた。「愛知学園」にいた当時(中学卒業まで)は落ち着いた生活を送っていたが、稲沢市立稲沢西中学校を1990年(平成2年)3月に卒業し、同時に「愛知学園」を卒園すると再び非行がエスカレートしていった。就職した稲沢市内の会社をわずか1か月で退職してからは定職に就こうとせずシンナー遊びにふけり、1991年(平成3年)8月には窃盗・道路交通法違反容疑で補導され、中等少年院送致の決定(名古屋家庭裁判所一宮支部による)を受け瀬戸少年院に入所した。1991年12月に少年院を仮退院して塗装店・ガソリンスタンドで短期間働いたが、1992年7月ごろには交際していた女性とともに家出した。そして同年9月には窃盗・毒物及び劇物取締法違反・住居侵入・銃刀法違反の非行により特別少年院送致となり、1994年2月に愛知少年院を仮退院した。その後は型枠大工として働いたが長続きせず、少年院で知り合った知人を頼って暴力団の組事務所に出入りするようになり、同年7月以降は家出中の中学生を連れ歩いて通行人などから恐喝することで金員を手に入れていた。
※この「KMの生い立ち」の解説は、「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」の解説の一部です。
「KMの生い立ち」を含む「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」の記事については、「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」の概要を参照ください。
- KMの生い立ちのページへのリンク