90年代以降の事業拡張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 06:01 UTC 版)
「デビッド・スターン」の記事における「90年代以降の事業拡張」の解説
マジック・ジョンソンとラリー・バードに牽引された80年代が過ぎ、1990年代に入るとマイケル・ジョーダンのシカゴ・ブルズが強豪として台頭していた。1991年にシカゴ・ブルズがマジック・ジョンソンのロサンゼルス・レイカーズを破って初優勝を果たすと、ブルズとジョーダンの人気は頂点に達し、NBA人気も世界的なものになりつつあった。 1992年のバルセロナオリンピックにNBA選手が米国代表として参加したのはこのような時だった。ジョーダン、マジック・ジョンソン、ラリー・バードら名選手が一堂に集まったドリームチームはオリンピックを席捲し、NBAの知名度を世界的にさらに押し上げることに貢献した。以降のNBAは次第に海外からの選手を増やしていくと同時に、その選手たちの出身国でも人気を高めることになった。 90年代のNBAは、海外での事業展開に力を入れたことも特徴だった。シーズン開幕前にNBAのチームがヨーロッパを訪れオープン戦を開くようになったのは90年代に入ってからだった。また90年代初頭から、NBAはシーズンの公式戦を日本でも行っている。 海外市場への展開を本格化するため、NBAは米国以外にも事務所を開くようになった。現在は本部のニューヨークの他、マイアミ、トロント、メキシコシティ、ロンドン、パリ、バルセロナ、東京、台湾、香港、シンガポール、メルボルンと世界の主要な地域に事務所を置いている。 カナダにチームを置くこともスターンとNBAの願いだった。1995年にはバンクーバー・グリズリーズ(のちにメンフィスに移転)とトロント・ラプターズが創設され、NBAは新たな市場を獲得した。 90年代後半になると、スターンは更なる新規市場の開拓を目指し、女子のプロバスケットボールリーグの設立に取り組んだ。1996年にはWNBAがNBAの支援のもと発足し、翌年には最初のシーズンが始まった。 1999年にはマイケル・ジョーダンが引退し、同時期にNBAは選手と球団オーナー側による労使交渉の行き詰まりによりロックアウトが発生、シーズンの開幕が4か月遅れるという事態に陥った。これらによりリーグの人気は低下し、NBAと各球団の収入も低下するという不利な条件にありながら、スターンはテレビ局との交渉で放映権を24パーセント上乗せすることに成功し、辣腕ぶりを発揮している。
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