5度目の探検
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その後ラ・サールは同行者を募り、彼の探検の中でも、最も有名な探検に出た。クレーヴクールを18人のアメリカ・インディアンと共に出発して ミシシッピ川をカヌーで下り、メキシコ湾に着いた。1682年4月9日、この地でラサールは、ミシシッピ川流域がフランス領であると宣言し 現在のルイジアナ州ヴェニス付近の、ミシシッピ川の河口に銘板を埋めて十字架を立て、ルイ14世に敬意を表してその地をルイジアナと名付けた。また、狩猟のため、現在のテネシーとの州境に一行は足を止めたが、その時、兵器工であるピエール・プリュドムが行方不明になった。おそらくチカソー族に捕まったのだろうとなり、ラ・サールは、ハッチー川の南の崖に建てた砦柵をプリュドム砦と呼んだ。ところが10日後、プリュドムが、無事ではあったものの、かなり腹を空かせて戻ってきた。その後一行はミシシッピを下流へと向かった。プリュドム砦は、後のウエストテネシーで、最初に白人が建てた建造物となった。 ミシシッピ川下流を探検した後、ラ・サールはルイジアナへの入植者を募集するためフランスへ戻った。1683年、イリノイ川沿いの毛皮交易所にはアンリ・ド・トンティを指揮官として配置した。このトンティは、1678年にラサールがカナダに連れてきたイタリア人傭兵で、ラサールの盟友だった。この交易所は、ヌーベルフランス当局が、毛皮交易品をモントリオールに集中させることを決めて後、西にある交易所の中で唯一稼働している交易所だった。トンティはこの仕事にあまり気が乗らず、ラサールに手紙を送り、アメリカに戻って来て手伝ってくれと頼んだ。 1684年7月24日、ラ・サールはフランスからアメリカに、多くの入植者を連れて戻った。この入植者たちは、メキシコ湾沿岸のミシシッピ川河口に、フランス人入植地を建設するのが目的だった。1684年に、300人のフランス人が4隻の船で出航したが、海賊や、悪意のあるインディアンの襲撃を受け、また航海術の拙さもあって、1隻は西インド諸島で海賊に連れ去られ、2隻目のラ・ベル はマタゴルバ湾の入り江で沈没し、3隻目は座礁した。入植者たちはテキサスのヴィクトリア近くに、サンルイ砦を建設した。ラ・サールは徒歩で一行を東に向かわせ、3度に及びミシシッピに定住する機会を得ようとした。ミシシッピ川を新たな探検しているうちに、一行の残り36人は、テキサス州ナバソタの近くで反乱を起こした。そして1687年3月19日、ラ・サールはピエール・デュオーから暗殺された。デュオーはラ・サールに襲いかかった4人のうちの1人で、ハシナイ族(英語版)のインディアンの集落の最も西から、6リーグ(29キロ)の距離をやって来た男だった。ラサールの死後、サンルイ砦は1688年まで持ちこたえたが、カランカワ族(英語版)が残った大人を殺して、子供たちを捕虜とした。
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