3通の遺言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 03:16 UTC 版)
ノーベルの遺言は3通ある。書かれた年次は、順に1889年、1893年、1895年である。1889年の初めて書かれた遺言は破棄されている。 1893年に書かれた2通目は、もっとも形式が整ったものである。具体的な金額が盛り込まれておらず、遺産分配の割合が記されていた。親類・仕事仲間・友人らへ20パーセントを与え、協会や研究所などに16パーセントを寄付し、残りの64パーセントを基金の設立のためにストックホルムの科学アカデミーに移譲するという内容であった。 16パーセント枠にオーストリア平和協会が入っており、「平和運動推進のため」使うよう明記されていた。ベルタ・フォン・ズットナーに宛てた言葉と考えられている。 64パーセント枠について、(生理学と医学を除く分野で)業績を残した者に利子を与えること、そして、受賞要件とはしないが、欧州平和裁判所の設立に関して、政府や国家の偏見と、著作や行動で果敢に戦う者は、候補として推挙すること、なお、選考で国籍や性別を問わないことが記されている。 1895年に書かれた3通目は、ノーベルが翌年夏、ストックホルム・エンシルダ銀行に保管した。2通目以前を無効とする旨が明記されているが、2通目との違いは大きく分けて2点ある。1つは個人相続分が具体的な金額で示され、結果として2通目と比べた総額は実質的に3分の1程度に縮小された点である。内訳は次の通り。なお、兄ロベルトの子供たち4人その他には生前にそれぞれ2万クローナが振り込まれた。 甥ヤルマル:20万クローナ 甥ルードヴィ:20万クローナ 甥エマヌエル:30万クローナ ゾフィー・ヘス:年金として26000フローリン オルガ・ボットゲァー嬢(ゾフィーの妹):10万クローナ アラリック・リードベック:10万クローナ エリーセ・アンツン嬢:年金として2500フラン アルフレッド・ハモンド:1万ドル エミー・ウィンケルマン嬢:15万マルク マリエ・ウィンケルマン嬢:15万マルク 家政婦のゴーシャー婦人:10万フラン 召使アウグスト・オスワルド:年金として1,000フラン アウグストの妻アルフォンセ・オスワルド:1,000フラン 元庭師ジャン・レコツ:年金として300フラン 郵便局員デッソル夫人:年金として300フラン ジョルジュ・ファーレンバック:1899年1月まで毎年5,000フラン 2通目との相違における第2点は、文学賞、医学賞、平和賞の選考主体を新たに指定した点である。これらの選考がスウェーデン王立科学アカデミーには難しいとノーベルが考えていたことが推測されている。 なお、3通目の終わりで指名された遺言執行人は、ラグナル・ソールマンとルドルフ・リリェクイストの2人である。
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