220SEと300SEの活躍(1960年 - 1964年)
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「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「220SEと300SEの活躍(1960年 - 1964年)」の解説
1956年以降はラリーにおけるプライベーター支援がモータースポーツ活動の中心となり、この活動はレースから引退したノイバウアーに代わって元ワークスドライバーのカール・クリングが、スポーティングディレクター(Sportdirektor)として、新たな「監督」となって始められた。 当時、ラリーでは速さよりも車体の堅牢性や機械的な信頼性のほうが重視されていたことから、そういった点で優れていたメルセデス・ベンツの市販車はラリーに取り組んでいるプライベーターたちから好まれており、彼らへのサポートは1956年以降も続けられることとなる。 この時期、ミッレミリアやリエージュ~ローマラリーなどはGTカーの使用が盛んで、市販車の300SL(W198)はプライベーターだったヴォルフガング・フォン・トリップスやヴァルター・ショック(ドイツ語版)によって選ばれ、元ワークスドライバーのモスもプライベーターとして300SLを駆ってラリーに参戦するなどし、一定の活躍をした。 300SLの開発はされなかった一方で、フェラーリ(250GT)など、他社はGTカーの開発を続けたため、1950年代末になる頃には300SLも競争力を失い、それを支援する事業も一段落となる。 1960年のヨーロッパラリー選手権(ERC)では、ダイムラー・ベンツはクリングを監督にして、220SE(英語版)(W111)をエントリーさせた。自社チームといっても、220SEは4ドアのセダンであり、新型車を厳しいラリーで試験するという意味合いの参戦だった。しかし、開幕戦のモンテカルロラリーで、ワークスチームを参戦させていたBMC、フォード、トライアンフといった各社の車両を下して、ヴァルター・ショック、オイゲン・ベーリンガー(ドイツ語版)、エベルハルト・マーレ(ドイツ語版)の220SEが1-2-3フィニッシュを飾ってしまう。この結果は当のクリングやドライバーたちにとっても思いがけないものだったが、選手権のその後のレースでも優勝を重ね、結果的にこの年は、ショックがヨーロッパラリーチャンピオンを獲得した。220SEはその後も活躍し、翌1961年はベーリンガーを同選手権でランキング2位に導き、1962年にはベーリンガーにヨーロッパラリーチャンピオンのタイトルをもたらすこととなる。 続く1963年、ダイムラー・ベンツは300SE(英語版)(W112)のラリー仕様車を用意した。技術規則で「改造」は許されていたことから、エンジンは300SLのM198エンジンに換装し、トランスミッションも5速のものに変更した。300SEには市販車の時点でエアサスペンションが使われており、ラリー仕様車はその試作品を使用し、ドライバーが路面状況に応じて床下の高さを調整可能とした。この車両はツーリングカーレースでも使用され、翌1964年まで活躍した。 ラリーへの参戦はいずれもプライベーターをサポートするという体裁が取られたが、ラリーにおける活躍によって、メディアからはメルセデス・ベンツがモータースポーツ(サーキットレース)に戻るのではないかという憶測が飛ばされたが、クリングはそうした憶測に対して、メルセデス・ベンツがモータースポーツに戻ることはないと繰り返した。
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