2007〜2009年:シネ事件とフィリップ・ヴァルの辞任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 05:39 UTC 版)
「シャルリー・エブド」の記事における「2007〜2009年:シネ事件とフィリップ・ヴァルの辞任」の解説
2008年、『シャルリー・エブド』の政治風刺画家のシネ (モーリス・シネ)(フランス語版)が反ユダヤ主義な記事を掲載したとして告訴され、激しい論争が巻き起こった。所謂「シネ事件(フランス語版)」である。これはニコラ・サルコジ大統領の息子ジャン・サルコジが家電量販チェーン「ダルティ」の経営者の娘と結婚したことと、彼がスクーターで高級車に当て逃げしたとして訴えられたものの、容疑が晴れたことに触れて、「検察側は無罪を求刑した。言っておくが、訴えたのはアラブ人だ。おまけに(ジャンの)婚約者はダルティの創設者の後継者でユダヤ人。彼女と結婚する前にユダヤ教に改宗すると宣言したばかりだ。この坊やは出世するだろう」と書いたことに対して、ジャーナリストのクロード・アスコロヴィッチ (Claude Askolovitch) が「反ユダヤ主義ではない新聞に反ユダヤ主義の記事が掲載された」と非難した。フィリップ・ヴァル編集長は、『シャルリー・エブド』内で意見の対立があったにもかかわらず、結局、シネを解雇したが、ムハンマドの風刺画掲載について表現の自由を訴えていただけに、様々な観点から多くのフランス知識人がこれを非難し、2000人の署名を集めた「我々はシネを無条件に支援する」請願書を出した。『シャルリー・エブド』のティニウス、ヴィレムのほか、ミシェル・オンフレ、ダニエル・ベンサイド、ジル・ペロー(フランス語版)、アニー・エルノー、ジャン=リュック・ゴダール、ジェラール・ドパルデュー、ヨランド・モロー、オリヴィエ・ブザンスノなど日本でもよく知られている知識人などが名を連ねている。一方で、フィリップ・ヴァルを支援する記事が『ル・モンド』紙に掲載され、これにはベルナール=アンリ・レヴィ、エリザベート バダンテール、ロベール・バダンテール、エレーヌ・シクスー、ベルトラン・ドラノエ、クロード・ランズマン、ダニエル・ルコント、ジョアン・スファール、エリ・ヴィーゼルら20人が署名している。シネは「人種差別と反ユダヤ主義に反対する国際連盟 (LICRA)」に民衆扇動罪で訴えられたが、これは「風刺する権利の行使」であるとして、無罪となった。シネはクロード・アスコロヴィッチを名誉毀損で訴えたが、この訴えは却下された。『シャルリー・エブド』の出版社 (Éditions Rotatives) は、パリ大審裁判所に不当な契約破棄によりシネに対する40,000ユーロの損害賠償金の支払いを命じられた。控訴審ではこれがさらに増え、90,000ユーロの支払いを命じられた。シネは非常に多くの支援を得て、新たに『シネ・エブド(フランス語版)』を立ち上げ、商業的な成功を収めることになった。 2009年5月、フィリップ・ヴァルは『シャルリー・エブド』を離れ、ラジオ・フランスに加わることになった。風刺画家・コラムニストのシャルブが新たに編集長に就任した。17年間編集長を務めたフィリップ・ヴァルが去ったことで、新時代が切り開かれることになった。新編集長シャルブは『シャルリー・エブド』第899号の社説で「シャルリーその3」が始まると宣言し、「主な変更は、シャルリーがもはやヴァルとは関係がないということだ。我々は風刺が好きで集まった仲間だ。風刺の精神を貫きたい」と書いている。同じく風刺画家のリス(後述の襲撃事件後に編集長に就任)は「これからはより多くの風刺画を掲載し、テキストは短くなるけれど、それだけの話だ。ヴァルとは意見の食い違いがあったけれど、まったく違う新聞を作ろうとしたわけではない。そういう方針だったら、17年も続かなかっただろう」と書いている。また、新方針の一環として、ギヨーム・ダスキエ(フランス語版)、ローラン・レジェ(フランス語版)らを中心に調査報道に力を入れるようになった。
※この「2007〜2009年:シネ事件とフィリップ・ヴァルの辞任」の解説は、「シャルリー・エブド」の解説の一部です。
「2007〜2009年:シネ事件とフィリップ・ヴァルの辞任」を含む「シャルリー・エブド」の記事については、「シャルリー・エブド」の概要を参照ください。
- 2007〜2009年:シネ事件とフィリップヴァルの辞任のページへのリンク