2002 - 2006
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 01:40 UTC 版)
「イリーナ・スルツカヤ」の記事における「2002 - 2006」の解説
2002-2003シーズン、2003年にロシア・サンクトペテルブルクで開催されたグランプリファイナルのショートプログラム (Victory) が終了した夜に、母が重い腎臓病を患っていることを知らされる。母は意識不明の重体に陥るが、チームドクターの適切な処置のおかげで、奇跡的に一命を取り留めた。しかし長期療養が必要だという事実は、彼女に大きな衝撃を与えた。この影響からか翌日のフリースケーティング (La Traviata) には出場したものの、終始険しい表情の演技で精彩を欠き、2位に終わる。その後、事前に選出されていた世界選手権では2連覇が懸かっていたが、出場辞退となった。 しかも彼女の負担が日に日に増す中、同2003年中に彼女自身までもが自己免疫疾患(好酸球性多発血管炎性肉芽腫症)にかかり、気管支炎を併発、一時期は歩行も困難になった。トイレには這って行かねばならず、「ストレスで毎日泣いていた」という。 2003-2004シーズン、復帰は非常に困難と思われていたが、ロシア・スケート連盟の要請でドルトムントで行われた世界選手権へ、約1年ぶりに競技会へ復帰出場。病気が完治しないなかの出場であり、練習不足から精彩を欠いた演技で9位に終わったものの、キス&クライでの彼女は久々の復活に嬉しそうな表情を見せた。 2004-2005シーズンは、長期のブランクを全く感じさせない強さでグランプリシリーズ中国杯、ロシア杯、グランプリファイナル、欧州選手権、世界選手権でいずれも圧倒的なリードで優勝した。特に、地元モスクワで開催された世界選手権では、フリースケーティング(ワンダーランド)で3回転ルッツ-3回転ループに成功、結局3回転ループを3回跳んでしまったため最後のジャンプは無効になったが、それでも高い技術点を取り、演技構成点では5つの要素のうち4つが8点台で、130点を超える得点を獲得し2度目の優勝を果たした。 2005-2006シーズン、グランプリシリーズ2連勝。中国杯ではショートプログラムで自身初の70点越えを果たし、ロシアではフリースケーティングとトータルスコアで最高得点をマークした。だが2005年12月17日に東京、国立代々木競技場 第一体育館で行われたグランプリファイナルでは、ショートプログラム(死の舞踏)でいくつかのミスをおかし2位、フリースケーティング (Mario Takes A Walk) でも2位で総合2位に終わり(優勝は新鋭の浅田真央)、昨シーズンより続く連続優勝記録がストップした。その後、12月下旬にロシア・カザンで開かれたロシア選手権はインフルエンザのため欠場した。2006年1月にリヨンで開催された欧州選手権で7回目の優勝を果たし、ソニア・ヘニー、カタリナ・ヴィットらの記録を抜いて、同大会の史上最多優勝記録を更新した。 優勝間違いなしと思われていた2006年トリノオリンピックでは、SPで難度の高い要素を次々に披露、中でもダブルアクセルは解説の佐藤有香に絶賛された。技術点はトップであったが、演技構成点では、彼女の思ったほどの高得点が出ず1位のサーシャ・コーエンと僅差の2位となった。 最終滑走となったフリーでは、過去2年間で1度も犯したことのないミスが次々と出てしまった。前半でコンビネーションジャンプの予定が単独となったり、中盤ではトリプルフリップがダブルになるなどのミスが続き、さらに後半には得意のループジャンプで転倒、全体的に精彩を欠いた演技となった。その結果、荒川静香に逆転を許し、SP首位のコーエンを逆転することもできず銅メダルに終わり、悲願の五輪金メダル獲得はならなかった。
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