1993年の4協会協定
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「サッカー選手の代表資格」の記事における「1993年の4協会協定」の解説
4つの協会は、1993年2月27日にハートフォードシャーのハンブリーマナー(英語版)で会合した。スコットランドサッカー協会(SFA)は、会議の議事録を報道機関に発表した。 On the occasion of the meeting of the International Football Association Board on February 27, 1993 the four British associations ratified the following agreement, which came into force on February 1, 1993, on the criteria which should determine the eligibility of the player to be selected for one of the national teams of the British associations:His country of birth. The country of birth of his natural mother or father. The country of birth of his natural grandmother or grandfather. Where the player, both natural parents, and both natural grandparents are born outside the UK, but the player is the holder of a current British passport, he may play for the country of his choice." 1993年2月27日のFIFAでの会合の際に、4つのイギリスの協会は、選ばれる選手の適格性を決定する基準についての以下の合意を批准し、1993年2月1日付けで発効した。 その選手の出生地 その選手の実の父母いずれかの出生地 その選手の実の祖父母いずれかの出生地 本人、実の父母、実の祖父母いずれもイギリス生まれではなく、本人がイギリスのパスポートを持っている場合は、選手が所属する協会を選択できる。 デービッド・ジョンソン(英語版)は、1999年9月9日のアメリカ合衆国との親善試合などカリブ海諸国での親善試合4試合にジャマイカ代表として出場した経験を持つ選手であるが、彼はそれ以前にU-21イングランド代表でプレーした経験を持ち、イングランドB代表(英語版)での出場経験も有していた。1999年9月下旬、当時イプスウィッチ・タウンに所属していたジョンソンはウェールズ協会(FAW、後に怪我のために招集見送り)、さらにスコットランド協会 (SFA) から代表招集オファーを受けた。 ジョンソンはイギリスの里親によって育てられたジャマイカの移民であって、彼がイギリスの4協会のいずれの代表にも招集されることができると認識しており、ウェールズとスコットランドのサッカー協会も同様の認識であった。 イングランド協会(FA)は、代表資格の変更があり得ることを選手の代理人にアドバイスしていた 。 しかし、SFAは、ジョンソンの実の母親がイングランド出身であることが判明し、4協会の合意に基づけばジョンソンはイングランド代表以外の資格を得ることができないと判断し、SFAはこれに従うこととした。一方、北アイルランド協会(IFA)はジョンソン事例は、前年北アイルランド代表に招集されたドイツ生まれのマイク・テイラーの事例と同じであるとしてこれを承服しなかった。ヘラルドは、「イギリスの4協会が署名した合意では、イギリスの代表資格条項は、選手、彼の生みの父母、そして彼の祖父母(生みの親の実の父母)がすべてイギリス外で生まれた場合にのみ有効であることを強調することが重要である」と述べている。 ウェールズ協会(FAW)のスポークスマン、チェッリ・ステネットは、「この展開に非常に戸惑った」「テイラーは4つの母国のいずれかでプレーする資格があり、(北アイルランド代表監督の)ローリー・マクメネミー(英語版)もテイラーを招集することを望んだ」と述べた。ステネットは、FIFAがジョンソンにウェールズ代表資格の変更許可を与えたと明言し、「彼は試に出場するためにベンチにいた」と述べた。 ローリー・マクメネミーが率いていた北アイルランド代表はイギリスとは関係のない選手の招集を継続的に試みており、ドイツ生まれのマイク・テイラー、ナイジェリア生まれのデレ・アデボラ(英語版)、ジャマイカ生まれのジョンソンの招集を試みている。マクメネミーの後任であるサミー・マッキロイ(英語版)は、マクメネミーの方針をよしとしなかった。 元FA幹部のデイヴィッド・デイヴィス(英語版)は、スヴェン・ゴラン・エリクソンがイングランド代表監督を務めていたときに、イタリア出身のカルロ・クディチーニ、ブラジル出身のエドゥ、フランス出身のスティード・マルブランクとルイ・サハを招集することを検討していたと明かしている。 2004年2月、スコットランドでは、フランス出身のディディエ・アガテとイタリア出身のロレンツォ・アモルーゾがスコットランド代表としてプレーする可能性について多くのメディアによる憶測が飛び交った。スコットランド代表のドイツ人監督であるベルティ・フォクツは、彼らの守備を好んでいるようであった。スコットランド代表のキャプテン、クリスティアン・デイリー(英語版)はこれに対して、デイリー・レコード(英語版)紙のインタビューに「彼ら(協会幹部)がジネディーヌ・ジダンを呼んでも構わない。ただ、自分は外国人のチームで勝つよりもスコットランド人のチームで負けるほうがいい。ここはクラブチームではなくスコットランド代表チームなんだ…他の選手も間違いなくそれ(外国人選手の招集)に反対するだろう」と述べている。 他の協会との会合に先立ち、SFAの幹部であるデビッド・テイラーは、合意を許諾しないよう注意を促した。テイラーは「母国が最高の選手を自由に獲得できるわけではないことを注視しなければならない」「これは我々が4つの協会に分かれ、イギリス代表が存在しない理由の核心である」と述べた 。2004年3月1日、イギリスの4協会は合意を維持することを決議した。
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