1500型・1200型の製造
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「京阪1000型電車 (2代)」の記事における「1500型・1200型の製造」の解説
1000型・1100型の登場当時すでに日本は日中戦争に突入しており、京阪もほどなく戦時輸送への対応を余儀なくされる。輸送力向上のため、1100型に中間車を組み込むこととなって登場したのが1500型である。1100型は8両4編成分在籍していたので、本来ならば1500型は4両必要になるが、1両は京阪唯一の貴賓車で当時遊休状態にあった16号を改造して組み込むこととなり、1939年に3両が製造された。続いて1000型も3連化するため、翌年5両が追加されている。中間車とはいえ、大阪方に運転台を持つ制御車として製造され、床に主電動機点検蓋を設けるなど将来の電装を考慮した構造になっていた。ただし、戦時下であるために1000型や1100型に比べ大幅に簡略化した素材や工法が用いられている。1000型の中間車として製造されたものもロングシートであった。 続いて1500型を両運転台とした1200型が製造される。こちらは当初500型に組み込んで運用され、塗装も500形に合わせられていた。 太平洋戦争中、1000型は4両、1100型は3両が留置車扱いとなり、電装品も取り外されて運用を離脱した。残った車両も1000型はクロスシートの数を減らすような改造が施されたりしたが、ロングシートへの改造は行われなかった。 戦後の1946年に、京阪線としては戦後初の新造車として、1500型が10両製造された。これが本系列の最後の製造となった。戦後製造の5両は、資材不足からさらに簡略化された造りになっていた。 留置状態だった車両は1946年から1948年にかけて順次復帰している。また、1949年には1200型の電装が製造から6年を経てようやく実現している。1949年9月27日朝のラッシュ時、大阪行き準急3両編成が香里園駅手前で3両目1201のパンタグラフ付近から出火、重軽傷者135名を出した。戦時中の粗悪な車両で、パンタグラフを昇降するボルトが折損して垂れ下がり、取付台の脆弱な絶縁布を走行の振動で擦り切り屋根に短絡(デッドアース)した事が原因で、停車後に自動式扉が開かなかった事が被害を拡大させた。
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