龍原砲結成
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1987年、長州力らジャパンプロレス勢が新日本プロレスにUターン移籍した後の全日本プロレスは、かつてのように「日本人レスラー対外国人レスラー」という構図がメインになりつつあったが、一方で観客動員数の減少と言う課題が残り、試合会場では空席も目立つようになっていた。この事に危機感を覚えた天龍はマスコミを相手に会社批判を展開するが、発言内容をいいように取られて他の選手から逆に白い目で見られたり、退団説を流された事もあった。また、鶴田がプロレスに対して真剣に向き合う姿勢を見せなかった事、鳴り物入りでプロレスデビューした元横綱・輪島大士が精彩を欠き続けていた事も天龍を掻き立てる要因となった。 そうした状況の中、1987年5月16日、小山ゆうえんちスケートセンター大会のタイガー・ジェット・シン&テキサス・レッド戦の試合後、「現状は現状として受け止めなければ仕方ないけど、お客さんには常にフレッシュ感を与えなければいけないし、強いインパクトを与えていかなければ失礼だし、ウチ(全日本)にとってもよくない。だから俺は今、ジャンボ、輪島と戦いたい。……ジャンボの背中は見飽きたし、輪島のお守りにも疲れたよ!」とコメントし、鶴龍コンビの解消を宣言。周囲の反対の声を振り切り、全日本を活性化するためにジャイアント馬場に「阿修羅・原とタッグを組みたい」と直訴した。原を選んだ理由は1984年にUNヘビー級王座をかけたタイトルマッチが天龍自身の印象に強く残っていた事、国際プロレス出身と言う肩書きによって抗争に違うカラーを打ち出せる事、鶴龍コンビ解散表明前に原と合宿所で会った際、「もし何かやるなら俺もやる。源ちゃんが燃えてくれないと俺も目標がなくなって困るんだ」と鼓舞してくれた事がきっかけであったが、馬場への直訴は原に正式にタッグ結成を申し込む前の段階での行動であった。その後、6月1日の石川県産業展示館大会において2代目タイガーマスクの猛虎7番勝負の第5戦に出場した天龍は日本人同士の同門対決ながらタイガーと激しい攻防戦を繰り広げ、試合を見た馬場から原とのタッグ結成の了承を得る。改めて6月4日に原と会談してタッグ結成をマスコミにアピール。「ジャンボ、輪島を本気にさせて、全日本プロレスのリング上を熱く活性化させる」と宣言し、最終目標は新日本プロレス参戦を掲げた。
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