高雄沖の触雷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 19:53 UTC 版)
「響 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「高雄沖の触雷」の解説
9月5日夜、フィリピン防衛にあたる第八師団の兵員および軍需品を輸送するタマ25船団を護衛して高雄を出撃する。ところが、翌6日未明に船団が琉球嶼近海に差し掛かったところで、輸送船「永治丸」(日本郵船、6,968トン)が触雷して船体が二つ折れとなって爆沈。「永治丸」から脱出した陸軍兵士を救助しようと「永治丸」に接近したところ[出典無効]、8時45分ごろに艦首部で爆発が起こり、10名が戦死して一番砲塔直後の左舷部を大破、艦首は前方に向けて約25度垂れ下がった。また、触雷の衝撃で艦体全体にも少なからぬ損傷を受けた。後進により高雄に下がったあと、9月9日から11日まで左営で一番砲塔撤去を含む応急修理が行われた。この損傷により、1944年10月のレイテ沖海戦に参加することはなかった。この損傷については「潜水艦の雷撃によるもの」という説があり、元技術少佐で艦艇研究家の福井静夫がこの説を支持しているほか、アメリカ側記録では同じ日の「ヘイク」の攻撃が結び付けられているが、攻撃状況や位置が大きく異なっている。 9月28日に馬公に後送されて引き続き応急修理が行わるが、入渠中にもしばしば対空戦闘を余儀なくされて戦死者を出す。11月3日にいたってさらに基隆に下がることとなって翌4日に馬公を出港、排水作業を行いながら北上し、5日に基隆に到着した。この基隆停泊中、天候不順により乗員に赤痢患者が発生した。そのような状況の中、ヒ72船団加入中に爆撃を受けて損傷し11ノットの速力しか出せなくなっていた特設運送船「護国丸」(大阪商船、10,438トン)の護衛を担当。11月7日に相前後して日本本土に向かうことになったが、艦内で赤痢がいっそう蔓延して、一刻も早く佐世保に急がなければならなくなる事態が訪れる。間もなく「護国丸」と別れて11月9日に佐世保に到着。呉を経由して11月16日に横須賀に帰投するも、ただちに磯子区長浜の検疫錨地に回航されて隔離された。一切の消毒を終えたあとの12月10日に横須賀に向けて回航された。 なお、単独航行となった「護国丸」は11月10日未明、古志岐島近海を単独航行中にアメリカ潜水艦「バーブ」 (USS Barb, SS-220) の雷撃を受けて沈没した。
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