高仙芝とともに
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 15:06 UTC 版)
蒲州猗氏県(現在の山西省運城市臨猗県)の人で、母方の祖父が流罪になったのに従い、安西に移り住んだ。斜視で足が短く、片足が不自由だった。門番をしていた母方の祖父から読書を学んだが、外祖父の死後は貧しく身寄りもなかった。 30代の時に、都知兵馬使だった高仙芝の才腕と三十人以上の従者を引き連れていることを知り、発憤して彼の従者になることを志願した。封常清はその容貌のために受け入れてもらえなかったが、翌日も志願した。高仙芝は再度拒絶したが、その屋敷の門を朝夕、数十日離れずに懇願したため、高仙芝によって従者に任じられた。 開元29年(741年)、高仙芝の達奚部落討伐に従軍。この時、封常清は、井戸や泉のありか、敵の動きや大きさ、勝利に導いた計略などについての精緻な戦勝報告を作成した。高仙芝は報告したいところが全て書かれていたため、驚愕したといわれる。 判官の劉眺と独孤峻と語りあい、異才が認められ、畳州地下戍主に任じられ、次第に功を重ねて、鎮将、果毅校尉、折衝校尉と昇進していった。 天宝6載(747年)、高仙芝が小勃律国を討ち、安西四鎮節度使に昇進すると、従軍の際の功績によって慶王府録事参軍・節度判官・朝散大夫に任じられた。安西四鎮の倉庫・屯田・武器・営田などに関することを統括し、高仙芝の征討の度に留守を任された。封常清は才覚と学問、決断力があった。この頃、高仙芝の乳母の子である郎将の鄭徳詮が封常清に無礼を働いた。鄭徳詮は高仙芝に兄弟のように扱われ、家のことを全て任せられ、軍に威望があったが、これを処刑した。高仙芝の妻と乳母は泣いて鄭徳詮を救おうとしたが、拒まれたため、高仙芝に伝えた。高仙芝は驚いたが、封常清に一言も問うことはなく、封常清も謝罪しなかったと言う。 また、軍紀を乱した大将を二人撃殺したため、軍人たちは震え上がった。 天宝10載(751年)、高仙芝が河西節度使に転じるとその判官に任じられ、王正見が安西四鎮節度使になった時、安西四鎮支度営田副使・行軍司馬に任じられた。
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