節度使就任後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 15:06 UTC 版)
天宝11載(752年)、王正見が死ぬと、安西副都護・御史中丞・安西四鎮節度使に任命された。 天宝12載(753年)、配下の段秀実の助けもあって大勃律国を降伏させる。 天宝13載(754年)、長安に入り、御史大夫に任命された。また、程千里の後任として、北庭都護・安西四鎮節度使に就任した。封常清は勤勉でつつましく、苦労によく耐え、馬一匹を私物化することなく、その賞罰は厳格で明かであったという 天宝14載(755年)入朝し、安禄山の反乱に対する対応を玄宗に問われ、洛陽に赴き、早期に安禄山の首をとることを明言した。玄宗は、彼を范陽平盧節度使に任命した。 封常清は、洛陽で6万の兵を募集したが、兵は市井の寄せ集めであった。河陽橋を絶ち、洛陽の守備を固めたが、12月には安禄山率いる軍は黄河を渡り、陳留を落とし、河南節度使の張介然は処刑されてしまった。続いて、滎陽も落とされ、滎陽郡太守の崔無詖も処刑される。 封常清は武牢で安禄山軍の先鋒と交戦したが、本隊が到着し、洛陽の上東門まで退いたが敗れる。安禄山は洛陽に進入し、封常清は都亭駅・宣仁門で敗北を繰り返す。洛陽は陥落し、河南尹の達奚珣は降伏し、李憕・盧奕・蔣清らは捕らえられ処刑された。敗走する際、樹木を倒し、敵を足止めした後、陝郡まで退却したところで、唐軍を率いてきた高仙芝と会う。封常清は、安禄山に勢いの激しさを伝え、潼関を守ることを進言し、高仙芝とともに潼関に退いた。 この時、安禄山の軍について玄宗に上奏しようと長安に向かったが、一兵士に降格させられた上、潼関に戻る勅命を受けた。高仙芝は、封常清に諸軍の監督を行わせた。この時、監軍の辺令誠が二人の敗戦に関する上奏を行ったため、辺令誠に高仙芝と封常清の処刑の詔を与えたという。辺令誠は潼関に着くと、封常清を引き出し、詔勅を示した。封常清は、上奏文を辺令誠に託して、従容として処刑された。多くの人がその死を悲しんだという。高仙芝も続いて同じ場所で処刑されている。
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