節度使・哥舒翰
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天宝8載(749年)、隴右節度使として、王忠嗣が左遷される原因となった吐蕃の石堡城の攻略を命じられる。隴右・河西・朔方・河東及び突厥の兵合わせて10万を率いて攻め込んだ。石堡城は難攻不落であったが、数万の兵を失いつつも落城させた。 同じ節度使の安禄山とその従兄弟の安思順と仲が悪かった。来朝した時に安禄山から「私の父は(西域の)胡人。母は突厥。あなたの父は突厥。母は(西域の)胡人。族類が同じようなのに、なぜ、仲が悪いのかね?」と尋ねられ、「ことわざに『狐が穴に向かって吠えるのは不祥である』というものがある。根本を忘れているからだ。心を尽くすつもりはあるのだが」と答えた。安禄山は侮辱されたと思って怒り「突厥とはこのようなものか」といったため、反論しようとする。しかし、高力士の仲介で酔ったことにして席を外したことがあった。 河西節度使を兼ね、涼国公となる。吐蕃を破って九曲の地を奪い、西平郡王に封じられた。安禄山と対立する宰相の楊国忠と組み、太子少保に任じられた。この頃から哥舒翰は酒や色を好んだため病体となり、長安に入り、屋敷から外出することはなかったと伝えられる。
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