節度使・哥舒翰とは? わかりやすく解説

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節度使・哥舒翰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 07:04 UTC 版)

哥舒翰」の記事における「節度使・哥舒翰」の解説

天宝8載(749年)、隴右節度使として、王忠嗣左遷され原因となった吐蕃の石堡城の攻略命じられる。隴右・河西朔方河東及び突厥の兵合わせて10万率いて攻め込んだ。石堡城は難攻不落であったが、数万の兵を失いつつも落城させた。 同じ節度使安禄山とその従兄弟安思順と仲が悪かった来朝し時に安禄山から「私の父は(西域の)胡人。母は突厥。あなたの父は突厥。母は(西域の)胡人族類同じようなのに、なぜ、仲が悪いのかね?」と尋ねられ、「ことわざに『が穴に向かって吠えるのは不祥である』というものがある。根本忘れているからだ。心を尽くすつもりはあるのだが」と答えた安禄山侮辱されたと思って怒り突厥とはこのようなものか」といったため、反論しようとする。しかし、高力士仲介酔ったことにして席を外したことがあった。 河西節度使兼ね、涼国公となる。吐蕃破って九曲の地を奪い西平郡王に封じられた。安禄山対立する宰相楊国忠組み太子少保任じられた。この頃から哥舒翰は酒や色を好んだため病体となり、長安入り屋敷から外出することはなかったと伝えられる

※この「節度使・哥舒翰」の解説は、「哥舒翰」の解説の一部です。
「節度使・哥舒翰」を含む「哥舒翰」の記事については、「哥舒翰」の概要を参照ください。

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