顕真学苑創設
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1929年、龍谷大学では前田慧雲学長の後任人事を巡って問題が起こり、転機を迎える。真隆をはじめ心ある教授が中心となって本山からの天下り学長排撃運動を起こしたが、混乱を招いた責任をとり13人の教授とともに大学を去った。同年10月、大学を去った同志とともに、真宗学を中心に仏教文化の研究を主な目的とした「顕真学苑」を創設。自由な宗教研究活動を始め、その活動は全国各地の信奉者に支えられた。日曜日ごとに修道講座、若い学僧の研究発表や法話指導、春秋2回の大会には全国から多数の参加者があり満堂の盛況であった。学究的な活動を目指して顕真学会を組織し、研究発表・討論会・史跡調査などを活発的に行なった。特別講座では聖地巡礼を企画、夏には遠隔地への参拝・踏査を行なった。学苑メンバーの人格・識見は教団内外から高く評価され、信奉者は全国に20万人以上に及び、その布施は学苑の経営や仏教書の出版に充てられた。1935年「親鸞聖人研究館」落成。 真隆のもとには全国各地の信奉者から多くの便りが寄せられたが、真隆は届いた日に必ず目を通し、その日のうちに返事を出すように心掛けていた為、常にペンとハガキを持ち歩き、多忙な職務の合間には常に返事を書いた。自坊での法務ではいつも筆と硯を持ち、門徒から書を懇願されるたびに筆をとったため、現在も多数の書が残されている。また、生涯を通して全国の旧跡巡礼や布教活動を行い続け、若い頃は船旅で海外へも赴いた。いつも「たとえ布教の旅で死んでも本望」と口にしていたという。厚い信奉者からは「生き仏」「今親鸞」などと称された。
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