頼朝挙兵後とは? わかりやすく解説

頼朝挙兵後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 03:54 UTC 版)

源義重」の記事における「頼朝挙兵後」の解説

治承4年1180年)の源頼朝挙兵の際には、甥足利義兼・子山名義範・孫里見義成らが早期にその麾下帰参したのに対し、義重は一時日和見態度を取る。この背景には、北関東での主導的地位にあり頼朝格下見ていたことや、新田荘平家方の荘園であったこと、また木曾義仲とは親子2代に渡る宿敵関係でありこれを牽制する必要があった、といった要因挙げられる。 やがて頼朝威勢興隆目の当たりにし慌てて鎌倉駆けつける容易に頼朝不信感拭うことはできず、安達盛長取り成しでようやく帰参叶ったという。さらに、未亡人となっていた娘(祥寿姫)を頼朝側室にと乞われるもこれを拒否しより一層頼朝不興買った伝えられている。 甥の足利義兼逸早く頼朝の下に駆けつけ活躍し以後代々北条氏姻戚関係にあって強固に結びつくことによって幕府内での地位保ったのに対し、義重の鎌倉政権内における立場は常に微妙であり、鎌倉幕府成立のために積極的に協力したとは言いがたいものがあった。このことが足利新田両氏処遇の差となって表れ後代まで尾を引いていくことになる。但し義重自身源家最長老であり、幕府成立時点で八幡太郎義家にもっとも血統が近い者として一定の敬意受けていたようである。この頃出家し上西入道称したという。 晩年は、嫡男・義兼と共に新田家家督継いだばかりの曾孫の政義の後見役務めた建仁2年1202年)に老衰のために新田荘没した。『新田足利両家系図』によると享年89『尊卑分脈』では享年68とする。 『吾妻鏡』によると、建久4年1193年4月28日頼朝那須狩の帰り式部大夫入道上西新田館にて遊覧している。没年建仁2年1202年1月29日記述頼朝未亡人北条政子2代将軍頼家に対して、「故仁田入道上西(義重)は源家重鎮であったが、その死去から20日もたっていないのに蹴鞠興じるのは然るべからず」と叱責する記述なされている。

※この「頼朝挙兵後」の解説は、「源義重」の解説の一部です。
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