非常事態の渦中で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:22 UTC 版)
「エストニアの独立回復」の記事における「非常事態の渦中で」の解説
国家非常事態委員会はバルト地域にも非常事態宣言を発令し、タリン港(ロシア語版)はソ連艦によって封鎖された。沿バルト軍管区司令官フョードル・クジミン (ru) はリューテルに対して委員会への服従を求めたが、リューテルがこれを拒否したため、翌20日午前には約100両に及ぶソ連軍の車列がタリン市内に入った。だが、未だ統制が取れていないソ連軍に対し、数千人のタリン市民は「独裁反対」「エリツィン負けるな」との横断幕や三色旗を掲げて対抗した。連邦共産党中央委員会はクーデター支持を促す文書を各共和国へ送ったが、エストニア共産党独立派第一書記エン=アルノ・シッラリ(ロシア語版)は、これへの署名を拒否した。 国内のみならず、ソ連全土や国際社会もクーデターに騒然とするなか、エストニア最高会議の議員たちは19日早朝から独立へ向けた議論を開始した。しかし彼らには、未だクーデターの趨勢が不明確な状況で、独立宣言が国際社会から支持されるのかという懸念もあった。とりわけ議員たちが憂慮したのは、当時すでに民衆から見放されていたエストニア会議が決議に反対するのではないか、という点であった。 紛糾した議論の末、8月20日の深夜23時3分、最高会議は76人の議員の出席のもと、「独立回復に関する決議」(et) を賛成69票・反対0票・棄権1票の圧倒的多数で可決した。一方、最高会議のロシア人議員たちは、独立したエストニアにおいて非エストニア人の権利が保障されていない、としてこの決議への投票をボイコットした。 懸案事項であったエストニア会議の存在について、独立決議はその第2項で、最高会議とエストニア会議双方の代表によって構成される憲法制定会議(エストニア語版)の招集を定めた。これは、最高会議の側はエストニア会議に譲歩することで圧倒的賛成多数という投票結果の説得力を得、エストニア会議の側もそれまで正当性を否定し続けていた最高会議に協力するという、両者の妥協の産物であった。 一方、翌21日未明には侵入していたソ連軍によってタリンテレビ塔が占拠される事態が発生し、対する市民もトーンペア城や放送局に集結してこれらを死守する構えを見せた。同時期にはヴィリニュスとリガでもソ連軍の攻撃によって死者が発生するなか、エストニア政府(エストニア語版)もクーデターに反対するゼネストを全国で決行するよう呼びかけた。しかし同日中にはモスクワのクーデター勢力も瓦解を始め、19時にはタリンテレビ塔からもソ連軍が撤退したことによって、エストニアは無血での独立を達成した。
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