雑軍整理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/05 02:50 UTC 版)
中国軍はその中核を軍事委員会委員長蔣介石直系軍、いわゆる中央軍とし、それ以外に旧東北軍(張学良麾下)、旧西北軍(馮玉祥麾下)、山西軍(閻錫山麾下)、広西軍(李宗仁、白崇禧麾下)、広東軍(陳済棠麾下)、四川軍、湖南軍、山東軍、その他の雑軍から成るものであった。南京国民政府に直接支配された地域を除き、地方に駐留する各軍は名目上は中国軍としての立場を持っていたが実際は半独立の状態であった。1930年には蔣介石と軍閥の間で中原大戦が起きていた。 熱河戦、 灤東戦、関内戦は雑軍だけが前線にあり、彼等は最初から勝ち目のない日本軍との戦いを望むことはなかったが、雑軍は日本軍・満州軍にできるだけ打撃を被るように仕向けられ、中央軍は敗退した雑軍を後方で待ちうけ、その武力解散、武装解除を行った。たとえば3月28日灤河右岸に後退した何柱国軍は何応欽の命令で2000名が武装解除されたが、これは蔣介石の常套手段であり、逐次東北軍と雑軍を第一線に立たせて日本軍に当たらせ、その壊滅を策す一方、自力による武装解除を行い中国北部を完全に中央軍の掌中に収めようとする意図によるものであった。蔣介石は東北軍と雑軍の結束を崩すためにあらゆる反間・苦肉の策略を講じていた。 戦線への参加を求められた馮玉祥は3月24日に以下の条件を蔣介石が認めるなら行動すると答えている。 蔣介石自ら大軍を率いて出陣し、全線に総攻撃を加え孫殿英、宋哲元等が個別に撃破される危険より救うこと 前線に速やかに武器を供給すること 前線に軍隊を補充すること 戦死者遺族を支援すること 日本と妥協しないこと このような状況に置いて広東派は反蔣介石運動を開始し、他にも中央との対立を深めるものが出始めていた。
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