関東大乱
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成氏は父を殺した憲実の子の憲忠を憎んでことごとく対立するようになった。宝徳2年(1450年)、景仲と道真は鎌倉の成氏の御所を不意に襲った。成氏は江の島へ逃れ、小山氏、千葉氏、宇都宮氏らの味方を得て反撃し、由比ヶ浜で合戦になった。仲介が入って両者は和睦したが、遺恨が残った(江の島合戦)。 成氏と憲忠の反目は深まり、享徳3年(1454年)12月、成氏は憲忠を暗殺してしまった。景仲は憲忠の弟房顕を山内家当主に迎えて翌康正元年(1455年)、上杉方は反撃に出て武蔵分倍河原で成氏と戦うが大敗を喫し、顕房が戦死してしまう。道真は顕房の子の政真を家督に立てるが、幼児にすぎず、先代の持朝が家督に復帰することになった。 その後、成氏は幕府軍の攻撃を受けて鎌倉から逃れ、下総古河城に拠って古河公方と呼ばれるようになる。古河公方と両上杉家との抗争は享徳の乱と呼ばれ、その後、30年近く続くことになる。 康正2年(1456年)、道真は嫡子資長に家督を譲った。しかし、隠居はせず実権は持ち続けていた(家督を譲ったのは寛正2年(1461年)とも)。 古河公方との戦いのために、康正2年から長禄元年(1457年)にかけて道真、資長父子は河越城(埼玉県川越市)、岩槻城(埼玉県さいたま市)、そして江戸城(東京都千代田区)を築いた(岩槻城については、道真・資長父子でなく成田正等による築城説が今は主流である)。 資長が江戸城を居城としたのに対して、道真は主に扇谷家の本拠となった河越城を守り、主君持朝を補佐していたらしい。文明元年(1469年)に、道真はこの河越城で著名な歌人宗祇と心敬を招いて連歌会を催し、これは「河越千句」として有名である。道真の連歌は宗祇が編纂した『新撰菟玖波集』に収められている。 長禄2年(1458年)、8代将軍足利義政の異母兄政知が関東に下向、伊豆に留まり、堀越公方と称された。しかし、政知は持朝と対立、寛正2年(1461年)に持朝の相模守護活動が停止され、翌年に持朝謀反の噂が流れ、政知の執事渋川義鏡の讒言によって扇谷家重臣の三浦時高・大森氏頼・千葉実胤らが隠遁した。道真もこの政争に巻き込まれ、寛正2年に隠居したとされている(後に幕府の調停で両者は和解、義鏡は失脚)。
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