関東大乱とは? わかりやすく解説

関東大乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/29 03:49 UTC 版)

太田資清」の記事における「関東大乱」の解説

成氏は父を殺した実の子の憲忠を憎んでことごとく対立するようになった宝徳2年1450年)、景仲と道真鎌倉の成氏の御所不意に襲った。成氏は江の島逃れ小山氏千葉氏宇都宮氏らの味方得て反撃し由比ヶ浜合戦になった仲介入って両者和睦したが、遺恨残った江の島合戦)。 成氏と憲忠の反目深まり享徳3年1454年12月、成氏は憲忠を暗殺してしまった。景仲は憲忠の弟房顕を山内家当主迎えて康正元年1455年)、上杉方は反撃出て武蔵分倍河原で成氏と戦うが大敗喫し、顕房が戦死してしまう。道真は顕房の子の政真を家督立てるが、幼児にすぎず、先代の持朝が家督復帰することになったその後、成氏は幕府軍攻撃受けて鎌倉から逃れ下総古河城拠って古河公方呼ばれるうになる古河公方と両上杉家との抗争享徳の乱呼ばれその後30年近く続くことになる。 康正2年1456年)、道真嫡子資長に家督譲った。しかし、隠居はせず実権持ち続けていた(家督譲ったのは寛正2年1461年)とも)。 古河公方との戦いのために、康正2年から長禄元年1457年)にかけて道真、資長父子河越城埼玉県川越市)、岩槻城埼玉県さいたま市)、そして江戸城東京都千代田区)を築いた岩槻城については、道真・資長父子でなく成田正等による築城説が今は主流である)。 資長が江戸城居城としたのに対して道真は主に扇谷家本拠となった河越城守り主君持朝を補佐してたらしい文明元年1469年)に、道真はこの河越城著名な歌宗祇心敬招いて連歌会を催し、これは「河越千句」として有名である。道真連歌宗祇編纂した新撰菟玖波集』に収められている。 長禄2年1458年)、8代将軍足利義政異母兄政知が関東下向伊豆留まり堀越公方称された。しかし、政知は持朝と対立寛正2年1461年)に持朝の相模守護活動停止され翌年に持朝謀反の噂が流れ、政知の執事渋川義鏡讒言によって扇谷家重臣三浦時高大森氏頼千葉実胤らが隠遁した道真もこの政争巻き込まれ寛正2年隠居したとされている(後に幕府調停両者和解、義鏡は失脚)。

※この「関東大乱」の解説は、「太田資清」の解説の一部です。
「関東大乱」を含む「太田資清」の記事については、「太田資清」の概要を参照ください。

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