関係悪化と日露戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 07:40 UTC 版)
1891年には来日中のロシア皇太子ニコライが警備にあたっていた警察官の津田三蔵に斬りつけられて負傷した大津事件が発生した。責任をとって外相青木周蔵が辞任した。また津田三蔵の裁判をめぐり、政府はロシアとの関係悪化を懸念して大逆罪適用による死刑判決が下るよう大審院に圧力をかけたが、大審院長児島惟謙は拒否して謀殺未遂罪で裁き、無期懲役の判決を下し、法治国家として司法権の独立を守ったことで知られる。 同年に露仏同盟を締結し、フランスの資金でシベリア鉄道の建設を開始した。日清戦争(1894年7月 - 1895年4月)に日本が勝利し、日清講和条約が締結された。1895年にロシアは三国干渉を主導して、遼東半島を清へ返還させると、翌1896年清と露清密約を結んで東清鉄道の施設権を獲得、1898年には遼東半島の旅順・大連を租借した (旅順港・大連湾租借に関する条約)。これにより日本国内の対ロシア感情は大きく悪化した。同年にロシアは朝鮮から撤退し、日露間で韓国への干渉を制限する西・ローゼン協定が締結された。 1900年6月の義和団の乱の際にロシア軍が江東六十四屯の虐殺を起こし、その後の混乱に乗じて満州の南北全域を支配した。1902年1月に日本はロシアの清進出を嫌うイギリスと日英同盟を結んだ。同年4月にロシアは清国と満州還付に関する露清条約を結び満州からの撤兵を始めるものの、その後、対日強硬派のアレクサンドル・ベゾブラーゾフが台頭し、1903年に満州からの撤兵を中断し、また、朝鮮の鴨緑江河口の龍岩浦へ軍事基地を設置しようとした (龍岩浦事件)。 1904年2月に日露戦争が始まり、1905年5月の日本海海戦を経て日本はそれに勝利する。また日露戦争中には日本はロシアの戦争継続を困難にせしめるため、ロシア第一革命への支援工作を行っていた (明石元二郎)ほか、ポーランド独立派のユゼフ・ピウスツキにも支援を行っている。
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