長徳期におきた出来事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 09:00 UTC 版)
王朝政治史上大きな変動があった時期。改元前後に全国を席巻した疫病が起き、ついで中関白藤原道隆の薨去とそれに伴う政争があり、程なくして内大臣藤原伊周・中納言藤原隆家兄弟といった公卿が政変(年号に因み「長徳の変」と称される)によって流されるといった騒動があった。 長徳元年(995年)2月22日、改元に付随して恩赦(重大犯罪者を除く)を行う。 9月、若狭に来着した宋人を越後に移す。 長徳2年(996年)3月28日、一条天皇の母、東三条院藤原詮子の病臥に伴い、恩赦(重大犯罪者を除く)を行う。 6月14日、右近衛大将だった大納言の藤原顕光の邸宅に群盗が押し入り、在宅中だった橘内成(たちばなのうちなり)の息子が負傷する。 11月、播磨掾で摂津守だった郎等の高向国明の私邸が捜索を受け、財産が差し押さえられる。 長徳3年(997年)3月25日、藤原詮子の病臥に伴い、恩赦(重大犯罪を含む全ての犯罪者)を行う。 6月5日、河内国若江郡(大阪府八尾市・東大阪市)にて、豪族の美努氏の1人で、前淡路掾(さきのあわじのじょう)だった美務兼倫(みぬのかねとも)の家宅に、同族で太皇太后昌子内親王の太皇太后宮職の史生だった美努真遠(みぬのさねとお)の指示の元、前遠江介(さきのとおとうみのすけ)だった美務公忠(みぬのきみただ)を首魁とする武装集団が夜討ちをかけて殺害を目論むも、「若江郡使」であった源訪(みなもとのたずぬ)など郎等たちの加勢もあって未遂に終わる。後日、兼倫は都の検非違使に訴え出て、告発状は『前淡路掾美努兼倫解(さきのあわじのじょうみぬのかねともげ)』として『三条家本北山抄裏文書』に現存している。 長徳4年(998年)2月2日、備前国から難波津(大阪湾)の淀川河口に向かっていた260石積みの運搬船(備前国鹿田荘の別当渋川辛運の所有)が摂津国武庫郡の港で強風による高波で沈みかけるが、運搬船を『寄り物』と判断した現地の豪族『秦押領使』が、乗員だった秦米茂の手引きで一方的な略奪を行い、美作国の荘園から奈良の秋篠寺に運ぶ予定だった積荷の米180石と塩20籠、そして船体も解体されて持ち去られ、梶取(船長)の佐伯吉永も殺害未遂に遭う事件が発生する。
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