銀山争奪とは? わかりやすく解説

銀山争奪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:16 UTC 版)

石見銀山」の記事における「銀山争奪」の解説

1537年天文6年)、出雲尼子経久石見侵攻銀山奪った2年後大内氏奪還したものの、その2年後に尼子氏石見小笠原氏使って再び銀山占領大内氏尼子氏による争奪戦続いた。 義隆の死後毛利氏大内氏代わり台頭すると、毛利元就尼子晴久との間で銀山争奪戦繰り広げた。だが、1556年弘治2年)の忍原崩れ1559年永禄2年)の降露坂の戦いといった戦いで尼子氏勝利終わり、晴久の存命中に元就石見銀山奪取しえなかった。 だが、1561年永禄4年)に晴久が急死すると、後を継いだ尼子義久家中動揺抑えるため、1562年永禄5年)に毛利氏と「石見不干渉」を約した雲芸和議結んだ。これにより、最終的に毛利氏勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には吉川元春家臣森脇市郎左衛門置かれた。同年12月には石見銀山朝廷御料所として献呈する天正9年1581年7月5日付の石見銀山納所高注文(『毛利家文書』)によると、大森銀山納所高一年分合わせて33072貫、銀子換算すると3652であった毛利氏流浪足利義昭奉じて織田信長天下競うほどの勢力誇った要因に、この大森銀山支えられ経済力があったのであるその後1584年天正12年)に輝元が豊臣秀吉服属することになると、銀山豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏代官である三井善兵衛共同管理となり、秀吉朝鮮出兵軍資金にも充てられた。 1591年天正19年)、輝元は豊臣秀吉の命により石見銀山始めとする領国銀山治めるため、林就長および柳沢元政奉行任命した1597年慶長2年)には、輝元から秀吉に銀3,000129貫、約480キログラム)が、関ヶ原の戦い直後1600年慶長5年)の割当では毛利家徳川家折半となり各々13,000ずつが、それぞれ運上されている(『吉岡文書』)。

※この「銀山争奪」の解説は、「石見銀山」の解説の一部です。
「銀山争奪」を含む「石見銀山」の記事については、「石見銀山」の概要を参照ください。

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