銀山争奪
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1537年(天文6年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が石見小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。 義隆の死後、毛利氏が大内氏に代わり台頭すると、毛利元就は尼子晴久との間で銀山争奪戦を繰り広げた。だが、1556年(弘治2年)の忍原崩れ、1559年(永禄2年)の降露坂の戦いといった戦いでは尼子氏の勝利に終わり、晴久の存命中に元就は石見銀山を奪取しえなかった。 だが、1561年(永禄4年)に晴久が急死すると、後を継いだ尼子義久は家中の動揺を抑えるため、1562年(永禄5年)に毛利氏と「石見不干渉」を約した雲芸和議を結んだ。これにより、最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた。同年12月には石見銀山を朝廷の御料所として献呈する。 天正9年(1581年)7月5日付の石見銀山納所高注文(『毛利家文書』)によると、大森銀山の納所高は一年分合わせて3万3072貫、銀子に換算すると3652枚であった。毛利氏が流浪の足利義昭を奉じて織田信長と天下を競うほどの勢力を誇った要因に、この大森銀山に支えられた経済力があったのである。 その後、1584年(天正12年)に輝元が豊臣秀吉に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた。 1591年(天正19年)、輝元は豊臣秀吉の命により石見銀山を始めとする領国の銀山を治めるため、林就長および柳沢元政を奉行に任命した。 1597年(慶長2年)には、輝元から秀吉に銀3,000枚(129貫、約480キログラム)が、関ヶ原の戦い直後の1600年(慶長5年)の割当では毛利家と徳川家の折半となり各々銀13,000枚ずつが、それぞれ運上されている(『吉岡文書』)。
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