銀山新道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 23:16 UTC 版)
明治時代に、大島高任・古河市兵衛らが採掘を再開したわけであるが、三島通庸知事が会津三方道路に着手すると、かつての下野街道が通らなくなって危機感をいだいた会津若松市材木町、飯寺などの有志が、佐治幸平らと軽井沢銀山から赤留峠・旧会津高田町市街(今の福島県道53号・国道401号)を経由したほうが若松市内を結ぶ最短であることに目をつけ推進したのが銀山新道である。市内 - 飯寺(にいでら) - 高田橋 - 古舘(ふるだて) - 高田 - 赤留(あかる)- 赤留峠 - 中ノ山 - 二岐(ふたまた) - 市野峠 - 軽井沢(軽井沢以西は上に同じ)のルートで、1889年(明治22年)に整備されたものである。特に高田橋から旧会津高田町入口までは、正確に測量されたため当時にはありえないほど一直線である。記念碑(共益碑)は会津若松市北会津町の消防署小松出張所脇に残されている。
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