銀山の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 06:17 UTC 版)
良質の銀を産出し、諸制度も確立されて順調に経営されていた上田銀山だったが、1706年(宝永3年)に坑内排水作業の手違いから坑道が崩落し、多数の死傷者が出た。幕府はやむなく留山の処置に踏み切った。しかしその後も、小出島の松原氏(1706年 - 08年)、江戸の森田屋(1709年 - 11年)、下野国の正田利右衛門(1850年 - 59年)らにより、銀・鉛の採掘が続けられた。特に最後の正田利右衛門の時の採鉱は順調で、河村瑞賢の頃をもしのぐ採掘成績を残している。鉛は多い時では年間19,000貫(約72,000kg)を産出した。 1862年(安政6年)、採掘中に過って只見川の河床を掘り抜いてしまい大量出水し、300余名の死傷者が出た。これにより上田銀山はまったくの再起不能に陥り、閉山となった。
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