銀山争奪戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 10:20 UTC 版)
石見国の石見銀山(現・島根県大田市)は大永6年(1526年)より大内義興支配の元で本格的な採掘が始まり、享禄3年(1530年)、地元豪族である小笠原長隆の銀山占拠を嚆矢として争奪戦が開始された。3年後に大内氏が奪回するも天文6年(1537年)には尼子経久が石見国へ侵攻し銀山争奪戦に介入を始める。 天文22年(1553年)4月頃、当時銀山を支配していた大内氏は、刺賀長信を銀山側の山吹城の城主として任じたが、天文24年(1555年)に大内氏の家政を仕切っていた陶晴賢が厳島の戦いで毛利元就の軍に敗れて敗死したためにその勢力が石見国から後退、代わって毛利氏が尼子氏との石見銀山争奪戦を始めることとなった。
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