銀山の最盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 06:17 UTC 版)
小出島(現・魚沼市小出)から銀山に至る峠道には8ヶ所の宿場・3ヶ所の番所が設けられた。また、銀山の中心地・須原口には本陣が、採鉱現場近くには十二山神社が設けられ、山間の秘境に一大鉱山街が出現するに至った。銀山の開発が知れるや、諸国から職人・商人・鉱夫・遊女が参集し、空前のにぎわいを見せた。 高田藩による銀の採掘は足かけ25年に及んだが、1681年に高田藩主・松平光長は有名な高田騒動により改易され、銀山の採掘は中止となってしまった。やがて高田の商人・須浜屋が5ヶ年の期限付きで銀山の経営を再開した。1689年(元禄2年)には只見川を隔てた会津藩領からも銀鉱が発見されて白峯(しらぶ)銀山と名付けられ、上田銀山と白峯銀山を合わせて大福銀山と呼ばれた。江戸幕府は両銀山を直轄経営とし、河村瑞賢に山支配を行わせた。幕府へ上納された花降銀は、1698年(元禄10年)には1,044貫(約4,000kg)に達した。 当時、只見川・北ノ又川沿いは、上田銀山・白峯銀山の関係者合わせて2万5千人ほどが居住する一大鉱山街で、その中心街は千軒原と呼ばれた。十二山神社のほかに寺院が三山、温泉宿や遊女宿までがあった。ただこの地域は全国でも有数の豪雪地でもあり、入山は旧暦4月・下山は旧暦10月となっていた。下山時は代官所・会所・番所等の役人・人足は越冬隊を残して下山したが、越冬隊として山回り3人・雪かき人足10人・詰夫70人・使番および門番10人が、施設や道具の保守管理にあたったという。
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