鈴木道雄社長の切望
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 20:17 UTC 版)
「スズキ・スズライト」の記事における「鈴木道雄社長の切望」の解説
当時の日本はまだ戦後混乱期からの復興途中であった。多くの国産自動車メーカーは、乗用車分野では、アメリカ、イギリス、フランスのメーカーと提携、部品を輸入し、自らの工場で組み立てするノックダウン生産からスタートし、その部品を段階的に国産化(技術移転)する途上であった。 また「軽自動車」という規格はすでにあったものの、当時の技術では「乗用車」として成立することは不可能であると考えられており、フライングフェザーなどのように町工場規模で細々と製造されているに過ぎなかった。そして、軽自動車規格での乗用車開発は十分な資本力や技術力が投入されず、早々に頓挫する事例がほとんどであった。 1953年末の時点で、俊三常務と丸山ら開発陣は自転車補助エンジン販売ビジネスによる鈴木式織機の経営改善に気を良くし、更に本格的なオートバイ開発へのシフトを進めた。一般的な考え方からすれば、無難で堅実なステップアップが図られつつあった。 ところが社長である鈴木道雄は、戦前に頓挫した四輪小型自動車開発への再挑戦を目論んでいた。半ば無謀であったが、道雄の四輪自動車自社開発への情熱はきわめて強いものであった。このため俊三も危惧を抱いて反対したが、義父を止めることはできなかった。 とはいえ、道雄も四輪車開発に、社内から大量の資金や人員を投入できないことは承知していた。このため、敢えて二輪部門の技術者を使わず、設計能力を持つ技術者少数を別部門から選抜することにした。そこで抜擢されたのが、自社生産本部所属で織機設計経験もあった3名の若手社員、稲川誠一、鈴木弘、島賢司であった。 1954年1月、道雄社長の指示で社内に小規模な「四輪研究室」が設置されたが、配属された稲川たち3名は自動車運転免許も持っていない状態であった。4月に静岡大学卒の新入社員2名(内山久男、川島勇。共に後年、スズキの会長職や常務職を務めた)が配属されたが、2名とも大学時代に運転免許を取得していたのが配属理由であった。 社内からは「四輪開発は時期尚早」との批判も強かったが、鈴木道雄は自らの直轄部署として四輪研究室を庇護した。バックアップのため、俊三常務同様に自身の娘婿で、戦前に丸山善九と共に四輪車試作開発に取り組んだ経験のある取締役製造部長・鈴木三郎(1908-1995)に後援の指示を行うなどして、5名の研究員たちを公私ともに厚遇したという。
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