野田派の歴史とは? わかりやすく解説

野田派の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:58 UTC 版)

起倒流」の記事における「野田派の歴史」の解説

備前藩では協信社というものを創設し剣術柔術弓術その他の武芸奨励していた。その道場である武揚館では起倒流教えられていた。指南番野田左衛門であり、長男野田久麿が後を継いだ。 また次男吉田直蔵は技優れて名人称されていた。吉田直蔵は丈の高い立派な体格人品良く浮腰と横捨身が上手であったと伝わる。吉田直蔵は兄の野田久麿と共に野田左衛門から起倒流学び20代免許皆伝得た。また西洋砲術を兄の野田久麿から学んだ吉田岡山詰の前に江戸で当時及ぶものがいないと言われ戸塚派楊心流戸塚彦助試合して勝ち武名轟かせとされる戸塚派楊心流では岡山藩戸塚彦助門人として名を連ねている。明治維新後に東京錦二丁目道場設立し起倒流柔術指南所大看板をあげた。この道場には嘉納治五郎横山作次郎学び通っていた。そして嘉納治五郎起倒流後を継ぐ優秀な者に渡してほしいと頼んで寺田勘右衛門から野田左衛門伝わった秘書全て渡した野田久麿へ伝えられるはずの伝書吉田直蔵伝えられ遺言により嘉納渡ったのであるとされるその頃野田久麿の後を継いだ野田権三郎が嘉納治五郎相続人だから返してほしいと申し出た嘉納は渡さなかった。その伝書を嘉納永岡秀一渡そう思っていたが、そのまま嘉納家所蔵されている。 野田久麿は武揚館の副幹事として禄百石下西川に屋敷貰い練武館という道場開いた備前藩柔術全盛極め僧侶まで学ばれていたが、野田練武館が道場として揃い整っていたことから名を成していた。 野田久麿の相続人である野田権三郎は技が巧みだったが非常に体が小さかったため試合には適さなかった。武者修行者が来ると、当時野田道場実力一位で鬼重大夫呼ばれた岸本重太郎出場した備前柔術明治維新改革により衰退し吉田直蔵東京へ去り野田久麿が他界したことなどによって凋落した。練武館は武揚館と改め内山下移った道場には藩の武揚館のものであった思われる「武揚館」の額と陳元贇肖像画掛けてあった。 また練武館に通っていた岡山南部に住む青少年紺屋町開閑寺に道場設け野田権三郎と岸本重太郎迎えて稽古行った野田権三郎は既に稽古せず、岸本老体ながら稽古をしていた状態であった。この開閑寺道場講道館から馬場七五三段来て稽古し足技で皆を投げた。この青少年の内に当時16歳永岡秀一がいた。永岡秀一馬場三段当時流行二重マントを期て颯爽とした姿だったので講道館の技とマント憧れて上京した。後に永岡講道館柔道十段となった永岡上京した後、武揚館の高弟であった根岸寅次郎上京し警視庁柔術教えていた片岡十郎金谷十郎)の道場代稽古として住み込んだ根岸寅次郎警視庁大会出場し当時講道館二段磯貝一試合し勝っている。 武揚館の主な門人根岸寅次郎の他に岡崎五郎筒井継男、小山太治、武繩七五郎、野面重人、赤木弁三がいた。根岸上京した後は武者修行者が来ると赤木弁三が相手をしていたが、後に渡米してなくなった

※この「野田派の歴史」の解説は、「起倒流」の解説の一部です。
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