野田派の歴史
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備前藩では協信社というものを創設し剣術、柔術、弓術その他の武芸を奨励していた。その道場である武揚館では起倒流が教えられていた。指南番は野田和左衛門であり、長男の野田久麿が後を継いだ。 また次男の吉田直蔵は技優れて名人と称されていた。吉田直蔵は丈の高い立派な体格で人品が良く、浮腰と横捨身が上手であったと伝わる。吉田直蔵は兄の野田久麿と共に野田和左衛門から起倒流を学び20代で免許皆伝を得た。また西洋砲術を兄の野田久麿から学んだ。吉田は岡山詰の前に江戸で当時及ぶものがいないと言われた戸塚派楊心流の戸塚彦助と試合して勝ち武名を轟かせたとされる。戸塚派楊心流では岡山藩の戸塚彦助の門人として名を連ねている。明治維新後に東京錦町二丁目に道場を設立し起倒流柔術指南所の大看板をあげた。この道場には嘉納治五郎や横山作次郎も学びに通っていた。そして嘉納治五郎へ起倒流の後を継ぐ優秀な者に渡してほしいと頼んで寺田勘右衛門から野田和左衛門へ伝わった秘書を全て渡した。野田久麿へ伝えられるはずの伝書が吉田直蔵へ伝えられ遺言により嘉納へ渡ったものであるとされる。その頃、野田久麿の後を継いだ野田権三郎が嘉納治五郎に相続人だから返してほしいと申し出たが嘉納は渡さなかった。その伝書を嘉納は永岡秀一に渡そうと思っていたが、そのまま嘉納家に所蔵されている。 野田久麿は武揚館の副幹事として禄百石、下西川に屋敷を貰い練武館という道場を開いた。備前藩の柔術は全盛を極め僧侶まで学ばれていたが、野田の練武館が道場として揃い整っていたことから名を成していた。 野田久麿の相続人である野田権三郎は技が巧みだったが非常に体が小さかったため試合には適さなかった。武者修行者が来ると、当時野田道場で実力一位で鬼重大夫と呼ばれた岸本重太郎が出場した。備前の柔術は明治維新の改革により衰退し、吉田直蔵が東京へ去り野田久麿が他界したことなどによって凋落した。練武館は武揚館と改め内山下に移った。道場には藩の武揚館のものであったと思われる「武揚館」の額と陳元贇の肖像画が掛けてあった。 また練武館に通っていた岡山南部に住む青少年が紺屋町開閑寺に道場を設け、野田権三郎と岸本重太郎を迎えて稽古を行った。野田権三郎は既に稽古せず、岸本が老体ながら稽古をしていた状態であった。この開閑寺道場に講道館から馬場七五郎三段が来て稽古し足技で皆を投げた。この青少年の内に当時16歳の永岡秀一がいた。永岡秀一は馬場三段が当時流行の二重マントを期て颯爽とした姿だったので講道館の技とマントに憧れて上京した。後に永岡は講道館柔道十段となった。 永岡が上京した後、武揚館の高弟であった根岸寅次郎が上京し警視庁で柔術を教えていた片岡仙十郎(金谷仙十郎)の道場に代稽古として住み込んだ。根岸寅次郎は警視庁の大会に出場し当時講道館二段の磯貝一と試合して勝っている。 武揚館の主な門人は根岸寅次郎の他に岡崎斧五郎、筒井継男、小山喜太治、武繩七五郎、野面重人、赤木弁三がいた。根岸が上京した後は武者修行者が来ると赤木弁三が相手をしていたが、後に渡米していなくなった。
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