通貨貨幣経済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:52 UTC 版)
次のことから、7世紀以前に無文銀銭や富本銭などの貨幣が発行されこれらの貨幣が流通していたのは九州であり、8世紀以後、ヤマト王権は九州の富本銭等を参考にして和開同珎(和同開珎)等の貨幣を発行したと考えられる。古田史学会報「二つの確証について」 西日本を中心に弥生時代の遺跡から秦や前漢の通貨である半両銭、前漢から隋の通貨である五銖銭、新の通貨である貨泉等が多数出土している。 魏志倭人伝に「乘船南北市糴(船に乗って南北に出かけて米の買い付けを行う)」・「國國有市、交易有無、使大倭監之(町々には市場があり、交易の有無を位の高い者に監視させている)」とあり倭は交易が盛んであったと記されている。 『続日本紀』769年の記事で太宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也(この府は人の行き来や交易が盛んで、日本一の都会である)」と報告しているように北部九州では8世紀既に経済活動が活発であった。 『続日本紀』等の記事やその銭文が示すとおり、ヤマト王権が発行した最初の貨幣は和開同珎(慶雲5年/和銅元年(708年))である。しかし、古代日本には和開同珎より以前に無文銀銭や富本銭(天武天皇12年(683年))などの貨幣が存在している。 和開同珎等の銅銭でさえ周防国(山口県山口市鋳銭司・下関市長府安養寺町)等の西日本でその多くが鋳造されていた。 和同開珎の私鋳銭が蔓延した716年には、朝廷は大宰府に対して材料取引の取り締まりを命じている。 九州には古代から博多港・坊津・八代港などがあったが、畿内地方には、外洋航海ができるような大型商船が着岸できる貿易港は、平清盛が12世紀に大輪田泊(神戸港)を整備するまで無かった。 蓄銭叙位令(和銅4年(711年) - 延暦19年(800年))などが示すように畿内地方では8世紀になっても通貨経済は未発達であった。畿内地方で通貨経済が発展するのは、12世紀に平清盛によって多量の宋銭が輸入されてからである。
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