通貨投機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 00:07 UTC 版)
1990年代初頭のイギリスは、1989年の東西ドイツ統合や欧州経済共同体の域内資本移動活発化による資本流出、欧州各国の不況、イギリスのサッチャー政権を初めとした各国政府の財政健全化策の影響等によって経済成長が後退し、失業率が上昇を見せ始めていた。弱い経済の中、イギリスは欧州為替相場メカニズム (ERM) に従い、自国通貨ポンドと欧州他国通貨との相場を、将来の欧州共通通貨ユーロ導入に向け、一定範囲に固定する政策を取っていた。1992年になると欧州経済圏統合の形を具体的に定めたマーストリヒト条約が調印され、その中で「政治統合無しの通貨統合を行う」と謡われていたことから、ユーロ導入が進むことでユーロ採用国が自国経済調節のため打ち出す金融政策の柔軟性は失われて行くであろうことが予想された。 イギリスは共通通貨導入に向けたこれらの制約によって、効果的金融政策の手段の一部を欠いていた。欧州経済が不調な中で1992年9月、同様に経済が後退期に入りつつあったイタリアが自国通貨リラを7%切り下げた。以前よりソロスは彼の部下スタンレー・ドラッケンミラー(Stanley Druckenmiller)(後に世界的に著名なヘッドファンドマネージャーとして知られるようになる)と共に、イギリスの経済力に比して通貨ポンドが政府により無理に高く固定されていると考えていた。イタリアによるリラ切り下げを契機として彼らは短期間に巨額のポンド売りを行った。これによりポンドは大きく下落した。イギリスはユーロ導入に向けポンドをERMのルールに基づき固定させる必要があったため、イギリス政府・財務省はポンドの下落に対し買い向かったが、資金が尽き、固定相場制を解きERMを脱退、ユーロ導入を断念した(ポンド危機)。 「ブラック・ウェンズデー」とも言われたこの一連の出来事(通貨危機)は、結果的に「英国病」に苦しんでいたイギリス経済が改善するきっかけとなったことから、現在では「ホワイト・ウェンズデー」とも呼ばれている。イギリスがERMを脱退しユーロ導入を断念して以後、イギリス国内経済は、1993年より2008年まで長期に渡り失業率の改善・安定経済成長・安定インフレ率を実現した。 1992年10月26日の「タイムズ」紙にて、ソロスは以下のように答えている。 「我々のブラックマンデーまでのトータルポジションはほぼ100億ドルの額であった。」 「しかし、我々はそれ以上に売ることを決断した。」 「事実、ノーマン・ラモント(英財務大臣)がポンドを買い支えるため、150億ドルを借りることを価値切り下げの直前に行ったとき、我々はどのくらい空売りすることになるかということを暗に示していたので、楽しんでいた。」 1997年、アジア通貨危機の間、マレーシア首相マハティールはソロスがマレーシア通貨リンギットを下落させたと名指しで非難した。ソロスはこの非難について、アジア通貨危機の最中もそれに先立つ数ヶ月間にも、バーツやリンギットを売ったことがなく、これらの通貨が下落しはじめたときはリンギットを買っており、この買いは早すぎたと述べている。なお、マハティールとソロスはその後和解している。
※この「通貨投機」の解説は、「ジョージ・ソロス」の解説の一部です。
「通貨投機」を含む「ジョージ・ソロス」の記事については、「ジョージ・ソロス」の概要を参照ください。
- 通貨投機のページへのリンク