近崎道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 03:42 UTC 版)
近崎道(ちがさきみち)は、有松村から桶廻間村・北尾村(きたおむら)を経て近崎村(ちがさきむら)までを結んだ里道である。江戸時代以前より存在していたと考えられ、桶狭間の戦いの折りには今川方・織田方が共に軍を進めた道筋としても知られている。ただし、往時の里道が近代以降の幹線道のベースとなっているパターンと異なり、大字桶狭間のとりわけ東ノ池以北における近崎道は近世以降あまり重要視されなかった可能性がある。『天保十二年丑年五月知多郡桶廻間村圖面』にも『天保十二年丑年五月知多郡有松村圖面』にも道筋は見えず、明治時代や大正時代の地形図にも里道としての記載が無い。2013年(平成25年)現在にあっても住宅地に続く生活道路以上の役割を果たしているとは言い難いものがある。 旧東海道が整備される以前には三河街道より分岐していたと考えられているが、現在では大字有松での旧東海道からその道筋をたどることができる。『天保十二年丑年五月知多郡有松村圖面』に示されるところの筋違橋(現在の松野根(まつのね)橋)は藍染川(あいぞめがわ)にかかる東海道の橋で、有松村の東端にあって鳴海村との境界にもなっているが、橋の手前で南に分岐する小道があり(名古屋市道生山線)、ここが近崎道の分岐点となっている(位置)。 市道生山線は国道1号と交わった付近で名古屋市道桶狭間北部第二第34号線に切り替わるが、道はそのまま生山東麓を回り込む形で大きくカーブし、豊明市との境界線に沿いながら次第に南進、大字桶狭間東部の住宅地の中へと続いていく。名古屋短期大学敷地南側付近に隣接するあたりは「釜ヶ谷」と呼ばれ、桶狭間の戦いの折りには織田方が驟雨の中で突撃の機をうかがうために身を潜めていた場所だといわれている。釜ヶ谷を過ぎ、愛知用水を下にくぐってさらに南進した付近で、かつての近崎道の名残は後年の宅地造成のために途切れてしまう。和光山長福寺にある桶狭間霊園の東の小道(位置)は一部が近崎道の名残とみられるが、それも再びセト山・樹木の住宅地の中で途切れてしまう。しかしさらに南方の東ノ池の西岸を南に走る名古屋市道桶狭間中部第5号線は近崎道の名残とみられ、東ノ池の北端で後述する大高道と交差している。なお近崎道はさらに南下、大字桶狭間の東西の幹線道のひとつである名古屋市道桶狭間勅使線を横切り(位置)、名四国道北崎インターチェンジと交差する大府市道へと抜けてゆくのである。 なお、近崎の読みは「ちかさき」でも「ちかざき」でもなく、「ちがさき」が正式である。かつての衣が浦は近崎村の付近まで奥まっており、この付近が茅(ちが)の繁茂する岬であったことが、地名の由来であるという。「近」の字は近世以降の当字と考えられ、『尾張国地名考』(1836年(天保7年))でも正式名は「茅之崎(ちがさき)」であるといい、「が」が濁音であり「さ」が清音であると念を押している。
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