跡目相続について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:16 UTC 版)
直秀は前藩主信枚の正室満天姫の連れ子であり、「前藩主信枚の義理の息子」「前藩主信枚の弟分」として準一門扱いをされ、なにより「家康の(義理の)孫」である。一方、新藩主となる信義は若年であるだけでなく、側室辰姫の子で「石田三成の孫」であり、幕府に対し極めて印象が悪い。また、直秀の実母弟であり信義の義母弟、すなわち満天姫と信枚の実子である信英という存在もあった。ただし信英は信義よりさらに若年である。 そのような状況の下であり、「家康の義理の孫」である直秀が中継ぎとしてでも相続するという仮定は、一見弘前藩全体にとっても決して悪い話ではなく、「自身にも相続権がある」と当人すら考えてもおかしくはない。当時の津軽家中には、親信義派と反信義派(信英派)、新参家臣と古参の譜代家臣などの、初代津軽為信以来続く家臣団対立が燻っており、満天姫・信英派(反信義派)や親徳川派といった方面からは、また両者の妥協点としても、直秀は格好の、いわゆる神輿の候補でもあった。 これより少し前に弘前藩は、幕府から転封の内示を受けていた。この、弘前藩に対する信濃国川中島(転封先は越後国だという説もある)への転封の話であるが、要約すると「津軽家を川中島に、改易・減封処分となった福島家を陸奥国最北の果て津軽の地に」という内容である。この転封はほぼ実現しつつあったが(当時の藩主信枚は移転費用工面のための金策を行っている。すなわち現実的に差し迫った課題であったことが推察される)、内示が出た転封であったはずなのに、一月も経たずになぜか津軽家の転封の部分は立ち消えとなり「福島家を川中島に(高井野藩)」のみで決着している。津軽家の幕閣に対するロビー活動の成果とも、幕閣内部での対立抗争による結果とも言われているが、定かではない。 ともあれ、この状況ではたとえ「家康の義理の孫」であっても「福島家一族」でもある直秀の擁立は、弘前藩にとってはかなり危険であると言えた。反信義派としても、満天姫・信枚の実子信英がいるため、あえて「福島家」の直秀を擁立する必然性はなかったと思われる。「信英が成人するまでの中継ぎ」としてでも、「福島家」の直秀であることは体面上、明らかに都合が悪いこととなる。 こうして直秀による跡目相続のわずかな可能性は潰え、前藩主信枚の強い希望があった「辰姫の子信義の相続」が実現することとなった。
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