跡目継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 16:48 UTC 版)
谷村亀之丞自雄の土佐藩士としての家督は、自雄の兄・谷村右衛門八自高の長男・谷村自輝(酒之丞)の次男である谷村自義(小猿)が跡目養子となり、文久3年2月5日(1863年3月23日)無相違相続した。 一方、無双直伝英信流宗家としての家督は、藩より正式に継いだのは谷村彜吉自脩であるが、2ヶ月後に病死した為、現在では宗家継承の世代に数えられていない。さらに、慶応元年(1865年)、藩政改革により再度芸家制廃止となる。明治維新以後、廃刀令の煽りを受け剣道も居合も衰退し、また特に長谷川英信流居合は江戸時代「御留流(おとめりゅう)」として藩外不出で、町中に道場も無く、藩校の一部で伝えられたのみで、これを伝承した者が限られ、廃絶の危機にあった。長谷川英信流の宗家・谷村家の親族であった板垣退助伯爵は、明治26年(1893年)、帰高の際に高知市材木町にあった「武学館」に招かれ、長谷川英信流居合術と松島流棒術の由来と功績に関する講演を行った。さらに板垣は、これらの武術を後世に継承させるためには、適切な師範と道場が必要となることを訴えて適任者を議した。詮議の結果、長谷川英信流居合は無双直伝英信流第15代・谷村亀之丞自雄のもとで居合術を学んだ、旧土佐藩士・五藤孫兵衛正亮、棒術は新市町の横田七次が最も堪能であるとの意見を得、板垣は両氏に子弟育成の件を直接相談に赴いた。両氏より快諾の旨を得た板垣は、さらに高知の素封家・竹村与右衛門の援助によりその敷地の一角に道場を建設させ、これらの振興につとめた。五藤正亮は名実ともに居合術の普及に努め子弟を育成。その後、正亮の居合の修養深きを知った高知県立第一中学校(のち「高知県立高知城東中学校」と改称, 現校名・高知県立高知追手前高等学校)校長・渋谷寬はの居合術が身心鍛錬に特効があるとして正亮を学校に招聘し生徒たちに指導させた。五藤正亮は、明治31年(1898年)64歳で歿した。
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