跡継ぎを巡る混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 05:37 UTC 版)
寛延3年(1750年)正室富子(信彦妹)との間に長男義興(申次郞)が生まれる。寛延4年(1751年)に正室富子が死去し、宝暦7年(1757年)に信彦次男丑之助(信精)が誕生すると、家中に信精を義顔の後継者に望む声が高まり、宝暦10年(1760年)2月に信精が、義顔の嫡子義興の嫡子(義顔嫡孫)となり、盛岡遠野屋敷に移る。 安永5年(1776年)7月19日、嫡孫信精(信徳)が死去。この急死に、遠野家中では死因を疑う声があった。11月30日、嫡子義興も死去し、安永6年(1777年)3月、側室の子怡顔を嫡子とすることを藩主利雄に届け出た。 天明5年(1785年)に怡顔が家督相続し、翌天明6年(1786年)には信彦五男の義応が嫡子とされた。その義応も家督を譲られないまま寛政7年(1795年)に36歳で没し、義応の子義堯と怡顔の実子義恭が家督を巡って争った。
※この「跡継ぎを巡る混乱」の解説は、「八戸義顔」の解説の一部です。
「跡継ぎを巡る混乱」を含む「八戸義顔」の記事については、「八戸義顔」の概要を参照ください。
- 跡継ぎを巡る混乱のページへのリンク