趙爾豊による建省運動とチベットの独立
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「チベットの歴史」の記事における「趙爾豊による建省運動とチベットの独立」の解説
「:en:Batang uprising」も参照 1905年、四川総督の趙爾豊は四川軍を率いてチベットに侵攻、雍正のチベット分割以来、名目上、四川省に帰属してきたカム地方東部の諸侯や、1642年に成立しラサに本拠をおいてチベットの中央部を統治するガンデンポタン軍などを次々と破り、1910年、ラサに入城した。ダライ・ラマ13世はインドへ逃れ、趙はカム地方の諸侯やガンデンポタンによる支配を排し、その他のチベット人諸侯の小政権をすべて取り潰した。さらに趙はガンデンポタンや、ガリ地方からウーツァン地方にかけての地方に西蔵省を、カム地方(雍正のチベット分割以来、西蔵、四川、雲南に三分)に西康省を設置し、従来、チベット人自身の統治に委ねられていたチベットの国土を、省制度を敷くことにより中国へと併合することを目指した。しかし趙が統治機構の整備に取り組み始めてほどなく、1911年に中国で辛亥革命が勃発、趙は成都に戻ったところで革命派に殺害され、趙が配置した行政機関や駐屯軍は、ガンデンポタンからの反撃や、地元勢力の蜂起により、次第に崩壊していった。 チベット側はこれに乗じて反攻を開始、1913年にラサを奪還して独立を宣言する。チベットの統一と独立を目指すガンデンポタンはこの省の全域を失地回復の標的とし、ディチュ河(金沙江)西岸の地を奪還(1905年まではガンデンポタンの統治下にあった)し、さらに東岸への進出を狙った。また、ディチュ河東岸の地も、中国の支配を嫌うカム諸侯の抵抗により、かろうじて県城と主要街道を押さえるのみの有様となり、省として発足する条件が整わぬため、ながらく「特別地区」という位置づけに甘んじた。
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