趙爾豊による建省運動とチベットの独立とは? わかりやすく解説

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趙爾豊による建省運動とチベットの独立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 10:16 UTC 版)

チベットの歴史」の記事における「趙爾豊による建省運動とチベットの独立」の解説

「:en:Batang uprising」も参照 1905年四川総督趙爾豊四川軍を率いてチベット侵攻雍正のチベット分割以来名目上四川省帰属してきたカム地方東部諸侯や、1642年成立しラサ本拠をおいてチベット中央部統治するガンデンポタン軍などを次々と破り1910年ラサ入城したダライ・ラマ13世インド逃れ、趙はカム地方諸侯ガンデンポタンによる支配排しその他のチベット人諸侯小政をすべて取り潰した。さらに趙はガンデンポタンや、ガリ地方からウーツァン地方にかけての地方西蔵省を、カム地方雍正のチベット分割以来西蔵四川雲南三分)に西康省設置し従来チベット人自身統治委ねられていたチベット国土を、省制度を敷くことにより中国へと併合することを目指した。しかし趙が統治機構整備取り組み始めてほどなく1911年中国辛亥革命勃発、趙は成都戻ったところで革命派殺害され、趙が配置した行政機関駐屯軍は、ガンデンポタンからの反撃や、地元勢力蜂起により、次第崩壊していった。 チベット側はこれに乗じて反攻開始1913年ラサ奪還し独立宣言するチベット統一独立目指すガンデンポタンはこの省の全域失地回復標的とし、ディチュ河金沙江西岸の地を奪還1905年まではガンデンポタン統治にあった)し、さらに東岸への進出狙ったまた、ディチュ河東岸の地も、中国支配を嫌うカム諸侯抵抗により、かろうじて県城主要街道押さえるのみの有様となり、省として発足する条件整わぬため、ながらく「特別地区」という位置づけ甘んじた

※この「趙爾豊による建省運動とチベットの独立」の解説は、「チベットの歴史」の解説の一部です。
「趙爾豊による建省運動とチベットの独立」を含む「チベットの歴史」の記事については、「チベットの歴史」の概要を参照ください。

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