趙眜の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 09:23 UTC 版)
紀元前137年、趙佗が死去したが、百余歳という高齢であったため、実子はみな趙佗に先立って死亡しており、王位は孫の趙眜(趙胡)によって継承された。趙眜が即位した2年後の紀元前135年、閩越は王位継承により不安定な南越の辺境城鎮を攻撃した。趙眜は即位したばかりで国内の民心が定まらない状況の下、武帝へ上書を提出、閩越による南越攻撃を説明し、漢による事件の処理を求めた。武帝は趙眜の行動を冊封体制の体現であると賀し、王恢、韓安国両将軍を司令官とする閩越討伐軍を派遣した。漢軍が南嶺に至る前に、閩越王の弟騶余善が反乱を起こし閩越王を殺害し漢朝に帰順したため、討伐計画は中止された。 武帝は騶余善を新たな閩越王に封じ、中大夫厳助を南越国に派遣し閩越の国内情勢を趙眜に告諭した。趙眜はこの告諭を知ると武帝に対する謝意を表明し、太子趙嬰斉を入朝させることを決定し、自らも時期を見て漢に入朝することを約束した。しかし厳助が帰朝すると、南越国の大臣らが趙佗の遺訓をもとに趙眜に対し自らが漢に入朝すれば武帝により拘留される恐れがあり、亡国に繋がると諫めた。結局、趙眜は南越を統治した12年間、病気を理由に入朝することはなかった。
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