赤いプロイセン人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 10:25 UTC 版)
「ヴィリー・シュトフ」の記事における「赤いプロイセン人」の解説
1952年~55年、彼は内相を務めた。この役職にあって、彼は東ドイツの全兵力に対する指揮権を公式に保有していた。そして1953年の「6月17日蜂起」を鎮圧後には、党中央委員会政治局員となった。1954年~62年、彼は閣僚評議会(ドイツ語版)副議長(副首相)を務め、1955年からは、兵営人民警察、国家保安省、科学技術庁、核研究・核技術庁、そして「核エネルギー平和利用のための経済評議会」に対して責任を負っていた。 1956年~60年、東ドイツの再軍備に伴い彼は国防相をも務めた。そしてこの職にあって、ワルシャワ条約機構統合軍の副司令官を兼ねていた。1960年には、国家機関内における閣僚評議会及びSED中央委員会の決定の執行を調整し、統制することを任された。1962年~64年、彼は閣僚評議会第一副議長(第一副首相)を務め、1963年~64年に、国家評議会の委員を兼ねた。 1964年~73年、死んだオットー・グローテヴォールの後継として、閣僚評議会議長(首相)および国家評議会副議長を務めた。この間首相として、1967年に西ドイツ首相クルト・ゲオルク・キージンガーに東西両ドイツの交渉を呼びかける書簡を送付。1970年3月には後任の西ドイツ首相ヴィリー・ブラントとエアフルト及びカッセルで会談、平和や東西共存に向けた問題に歩み寄りは見せなかったものの、東西ドイツの指導者同士の初の会談として注目を浴びた。 ヴァルター・ウルブリヒトの死後の1973年、シュトフは国家評議会議長、即ち共和国の国家元首となった。1976年の人民議会選挙の後、国家と党の指導部組織は再編され、シュトフは再度、閣僚評議会議長を務めた。ソ連に倣い、国家評議会議長の地位はSED書記長であるエーリッヒ・ホーネッカーが兼任した。シュトフは東ドイツにおいて教条主義的共産主義者で厳格な保守派とみなされ「赤いプロイセン人(Roter Preuße)」などとあだ名された。 第3回SED党大会でのシュトフ国防相(左)とハンガリー社会主義労働者党のカーダール第一書記(右) (1958年) エアフルトで会見するブラント(前列左)とシュトフ(右)(1970年3月19日) 国家評議会議長に就任したシュトフ(1973年10月3日) シュトフ内閣(閣僚評議会)のメンバー(1981年)
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