貴重なアルミニウム
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「アルミニウムの歴史」の記事における「貴重なアルミニウム」の解説
ヴェーラーの製法では大量のアルミニウムを作製できなかったため、アルミニウムは貴重なままであり、価格が金を越えるほどだった。 フランスの化学者アンリ・エティエンヌ・サント=クレール・ドビーユ(英語版)は1854年にパリ科学アカデミーでアルミニウムの工業製法を発表した。塩化アルミニウムはヴェーラーが使ったカリウムよりも便利で安いナトリウムでも還元することができるのであった。その後、アルミニウム棒は1855年のパリ万国博覧会ではじめて公開展示された。展示では金属の名前が「粘土からの銀」とされ、すぐに広まった。フランス皇帝ナポレオン3世は当時の一般的な世帯の年収の20倍もかかったドビーユの研究に助成金を与えた。パリ万国博覧会以前にもナポレオンが宴会を行い、最も高貴なゲストにはアルミニウム製の食器が与えられ、一方それ以外のゲストは金製の食器を使用した。1855年から1859年まで、アルミニウムの価格は1ポンド500米ドルから40ドルまでと、10分の1以下に下落した。しかし、ドビーユの製法でもアルミニウムの純度の高さが足りず、サンプルによって性質が異なった。 1856年、ドビーユは数人のパートナーとともにルーアンの製錬所で世界初のアルミニウム工業生産を開始した。ドビーユの製錬所は1856年から1857年にかけてまずナンテールのラ・グラシエール(La Glacière)に、続いてサランドル(英語版)に移転した。その後は製錬所がフランスの会社(後のペシネー(英語版))に買収され、やがて世界最大のアルミニウム工業生産会社に成長した。製錬所の技術は進歩を続け、1872年時点のサランドルでの産出量は1857年のナンテールのそれよりも900倍以上多かった。サランドルの製錬所はボーキサイトを主なアルミニウム鉱物として使い、一方ドビーユなどの化学者は氷晶石を使おうとしたが、既存の技術を越えることはなかった。イギリスの工学者ウィリアム・ジャーハード(William Gerhard)は1856年にロンドンのバタシーで氷晶石を原材料とする工場を建てたが、技術と財政問題により3年で廃業した。 ほかの化学者もアルミニウムの工業生産を試みた。イギリスのアイザック・ロージアン・ベル(英語版)は1860年にアルミニウム生産を開始(1874年まで継続した)したとき、群衆に対し高価で珍しいアルミニウム製のシルクハットを振った。イギリスの工学者ジェームズ・ファーン・ウェブスター(James Fern Webster)は1882年にナトリウムによる還元でアルミニウムの工業生産をはじめ、ドビーユのそれよりもはるかに純度の高いアルミニウムを生産した。1880年代にもいくつかのアルミニウム工場が設立されたものの、いずれも電気分解による製造が現れると廃れた。 次にパリで行われた1867年の万国博覧会ではアルミニウムのケーブルとアルミ箔が展示され、1878年のパリ万国博覧会ではアルミニウムが未来のシンボルになった。
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