変後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:02 UTC 版)
事変を見届けた水戸藩士・畑弥平は、品川の旅籠の金子孫二郎へ結果報告後、直ちに水戸へ急ぎ、事の経緯を藩庁へ伝えた。そのため、事件翌日の3月4日には、国許で永蟄居中の前水戸藩主・斉昭の元へ、変の詳細が伝わった。水戸藩側では事態を知り驚愕、江戸の水戸藩邸では幕府へ「浪士らは脱藩者ゆえ大法に即し処置されたい、関係者は水戸藩でも探索し召捕るつもりである」旨を上申した。その後、脱藩関係者らは捕縛され、松平容保の仲裁もあって水戸藩は事なきを得た。 残された尊攘急進派の水戸藩士は、万延元年(1860年)7月に長州藩との間で結ばれた成破の盟約を背景に、文久元年(1861年)から元治元年(1864年)にかけ第一次東禅寺事件や坂下門外の変、天狗党の乱などの尊王攘夷運動を先駆けた。藩領内で生じた天狗党の乱により、幕府の命に動いた保守派・諸生党が、その鎮圧へ転じた。天狗党は、前水戸藩主の子・一橋慶喜を頼って京都へ向かったが、彦根藩士は直弼公の敵討ちと戦意を高揚させて中山道を封鎖し、このためやむなく天狗党一行は美濃から飛騨を経て越前へ入り、敦賀に至った。慶喜が鎮圧軍の長として出陣したことで、元治元年(1864年)12月敦賀にて投降した。 加賀藩は彼らを厚遇したが、幕府追討軍総括、遠江相良藩主で若年寄・田沼意尊は彼らを鰊倉へ入れ、20名以上の病死者を出した。さらに、参加を欲した彦根藩士らの手により、元治2年(1865年)2月23日までに、敦賀の来迎寺境内で水戸藩士・352名が斬首された。他の者は遠島・追放された。 その後、第2次長州征伐中に起きた第14代将軍・家茂の薨去に伴って、徳川慶喜は徳川将軍家を継ぎ、ついで第15代将軍に就任した。また慶喜は慶応3年(1867年)10月14日に大政奉還を表し、その後江戸開城によって江戸幕府の歴史に幕を閉じた。
※この「変後」の解説は、「桜田門外の変」の解説の一部です。
「変後」を含む「桜田門外の変」の記事については、「桜田門外の変」の概要を参照ください。
- >> 「變後」を含む用語の索引
- 變後のページへのリンク