諸説-「朝野旧聞裒藁」での殺害・非殺害説-
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「岩松八弥」の記事における「諸説-「朝野旧聞裒藁」での殺害・非殺害説-」の解説
同様に「岩松八弥」として綱文にその名を記す「朝野旧聞裒藁」には以下の所伝が採録されている(汲古書院刊行本1巻673より679頁および740より741頁)。その名を「片目弥八」「片目弥八郎」とするものがあり、また討ち取られた時期についても記述がわかれている。 広忠を殺害したとするもの 「龍海院年譜」:天文18年3月6日、広忠16歳のとき「片目弥八郎」が岡崎城中へ忍び入りこれを害したとする。直後に広忠の戒名を記していることから「殺害」を意味するものと考えられる。「上村新六郎」がこれを討ち留めたとしている。 「天元年記録」:天文16年3月6日「佐久間九郎左衛門」が「片目弥八」を奉公させて広忠を殺害し、「植村新六」がこれを討ち取ったとする。 「岡崎古記」:同じく広忠殺害を16年3月6日とする。「片目弥八」を差し向けたのが「広瀬の佐久間九郎右衛門」(九郎左衛門の誤記か)もしくは「大浜の佐久間某」とする以外は「岡崎領主古記」に同じ。「佐久間九郎左衛門」と記す東大総合図書館蔵「参州本間氏覚書」の記述に文言同じ。 殺害には至らなかったとするもの 「松平記」:呼称は「片目八弥」。天文16年の条に「去年」に、として記される。広忠を「村正」の脇差で突き、植村新六郎と「出会組み堀の中へころび入」ったところを松平信孝に鑓で突き殺された。植村は感状を与えられた。(→巻1。『三河文献集成 中世編』105頁) 「官本 三河記」:「片目八弥」。天文16年の条に「去年」に、として。内容上に同じ。 「御年譜附尾」:「片目八弥」。内容上に同じだが、天文14年3月のこととして。広忠は「軽創」にして「恙無」しとする。(→巻2) 「三河記大全」:14年の条に「片目弥八」として。内容上に同じで、広忠につき「恙なし」。 「大永慶長年間略譜」:広忠公の家人「片目弥八郎」。15年冬のこととして。内容上に同じ。広忠と植村は「疵浅シ程ナクシテ癒エルト云」と記す。 「三岡記」:「片目弥八郎」。15年冬に「松平三左衛門」に頼まれて広忠に2箇所の傷を負わせた。信孝が鑓で突いたところを植村がその首をとったとする。 「治世元記」:同じく「片目弥八郎」だが、14年の条に3月のこととして。内容は「松平記」他に同じ。広忠の傷軽く「早く御平癒」とする。 「御先祖記」:14年の条3月に、「片目八弥」として。内容上に同じ。広忠は「早速御平癒」とする。 「武徳大成記」:既述。 「三州八代記古伝集」:既述。 「寛永諸家系図伝」:天文19年に「浅井某」あるいは「蜂屋某」が広忠を「突奉りて」逃げ去ったが「植村出羽守 はじめ新六郎」がその首をとったとする。広忠が殺害されたかどうかは記すところがない。「朝野旧聞裒藁」はその按文において、「浅井」とは「松平記」他に「異心の企てあり」と記された者(→前掲『三河文献集成 中世編』104頁。知行と引き換えに広忠を切ることを松平信孝に申し入れたという「岡崎衆浅井」)を誤り伝えたものであるといい、また「蜂谷」は「岩松八弥」の姓名を「詳らかにせずして」記したものであると述べ、年代・事実ともに従いがたいとしている。 「貞享 植村右衛門佐 書上」:既述。 「及聞秘録」:年次不明。「片目弥八」が「恨事有奉」て広忠を「村正」の脇差で突いた。これを仕損じた彼は植村に組み伏せられ、検議の上で刑に処せられたとする。 以上の所伝を採録した上で「朝野旧聞裒藁」は広忠病死説を採っている。「又曰く」としてそれを述べる「三州八代記古伝集」を除けば、広忠殺害を記すのは「龍海院年譜」「天元年記録」「岡崎古記」ということになる。
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