諸公国の内情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 18:41 UTC 版)
公・貴族・民会は、キエフ大公国を構成する各公国において、それぞれ異なる権力バランスを作り上げていた。以下はその例である。 キエフ公国 公の二頭体制が行われるいくつかのケースが見られたが、キエフ公国のボヤーレは内紛の白熱化を防ぐための支援を行い、他公国からの干渉に対して立ち回った(キエフ大公位に食指をのばしたユーリー・ドルゴルーキーは、キエフのボヤーレによって毒殺されたという推測がある)。また、キエフのボヤーレ階級は、ムスチスラフ1世の子孫に好意を抱いていたが、公を選ぶ際には、キエフのボヤーレらの見解は外部からの圧力に抗しきれないことがあった。一方、キエフのヴェーチェは12世紀半ばに衰退した。 ノヴゴロド公国 キエフとは対照的にヴェーチェが12世紀半ばに活動の全盛期を迎え、以降も長期に渡って機能していた。ノヴゴロドのヴェーチェは民事・軍事に関わる事項の決定や、公の任免・罷免をも決定した。また、ヴェーチェによる共和制の施行によって、ノヴゴロドではリューリク朝出身者のヴォートチナ(世襲領地)(ru)が発展することはなかった。なお、ノヴゴロド大主教の候補者はヴェーチェによって建議され、大主教が追放されたという出来事も記録されている。 ウラジーミル・スーズダリ大公国 公の権限を強化しようとしたウラジーミル大公アンドレイ・ボゴリュブスキーによる独裁政治と、それを除こうとするボヤーレのクチコ(ru)・下位層のドルジーナとが対立する事件が起きた。しかしアンドレイの死(1174年)の後、ボヤーレ側は敗北し、公個人の権力が大幅に増大することになった。とはいえ、その後14世紀の直前まで、ウラジーミル・スーズダリ大公国ではヴェーチェに関する言及が見出されることから、ヴェーチェは権力闘争の中において大きな役割を担うことになったと推測される。 ガーリチ公国 ボヤーレの中から公を選出するということが起きた。 また、唯一の、ルーシ全体が関与する政治機構としては、諸公会議が残っていた。それは主にポロヴェツ族との戦いに関する事項を扱った。なお、教会は府主教を長として、比較的統一性を保っていた(地域的な聖人・聖遺物の出現と、それに対する礼拝行為を除く)。
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