説三分の流行
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宋代は都市の経済や文化が大いに発展し、特に北宋の首都開封や南宋の首都杭州(臨安)の瓦市(盛り場)では、勾欄と呼ばれる寄席・見せ物小屋で、様々な講談(説話)が語られた。中でも特に「説三分」と呼ばれる三国ものが人気であり、当時の開封の盛況を記した『東京夢華録』には「説三分」専門の講釈師として「霍四究」などの名が書き留められている。北宋末を舞台にした小説『水滸伝』でも、李逵・燕青ら登場人物が開封に上京した際、勾欄で三国語りを聞く場面がある。講談には何日にも分けて興行される長篇ストーリーもあり、客の興味を引きつけるため、話が盛り上がる場面で「続きはまたの日に」と終了して、翌日以降に再び聞きに来させる手法が用いられた。この手法は後に『演義』毛宗崗本の文章で復活し、各回(章)の末尾に次回を期待させる「且聴下文分解(次回に続く)」などの文句が埋め込まれた。 赤壁の戦いについて詠んだ『赤壁賦』で有名な詩人・蘇東坡は『東坡志林』の中で「子供たちがうるさい時は銭を与えて講釈師を呼び、座らせて三国の物語を聞かせると、劉備が負けたと聞いて涙を流し、曹操が負けたと聞くや大喜びする」と記している。当時三国志物語が話芸の題材としてポピュラーであったこと、三国を語る芸人が多くいたこと、劉備が善玉で曹操が悪玉という評価が定まっていたことなどがうかがえる。
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